FC2ブログ

相模国の秦氏 その9

 
岩殿山から20号線を取って返します。桂川の渓流と紅葉が目に鮮やか、とまではいきませんが、結構楽しませてくれました。また20号線は元々甲州街道だったこともあり、そこかしこに古い趣のある民家が見られます。景色に見とれないよう注意しながら走ると、もう神奈川県です。次の目的地は三柱神社。津久井郡藤野町小渕に鎮座しています。

注:記事では津久井郡藤野町小渕と旧住所で書いていますが、実際には何度か変遷があり、平成22年相模原市藤野町は相模原市緑区へと自治体区分が変更されています。しかし、緑区なんて意味も味わいも何もない区名なのでとても使う気にはなれず、位置関係が理解しやすい旧住所にて記載しました。この点お含み置きください。

鎮座地はややわかりにくいのですが、中央本線上野原駅と藤野駅のほぼ中間点に当たります。大月方面からですと、中央本線が20号線の下でトンネルに入るすぐ手前を左折します。左折すれば右手に小渕小学校の校舎が目に入ります。

道なりに進むと、左手に下る小道がありますが、車で入るのはきつそうなので、少し先で路上駐車するしかありません。もっと先に行くと道路は中央自動車道の下を潜り抜けてしまいます。

三柱神社はちょっと不思議な場所にあります。まず、地下には中央本線の上りと下りが離れて走っており、そのちょうど中間点上に鎮座しています。さらには、北側に中央自動車道、南側に20号線が走り、甲州、信州への交通の大動脈上に鎮座しているのが、三柱神社ということになります。

何も考えずに行くと、なぜ山の中のこんな不便な場所にと思うのですが、実は現在の交通システムが集中している場所の真上に鎮座しているのです。神社の鎮座地からも、秦氏の地理・地形を読む目の確かさを感じるのですが、いかがなものでしょう?

などと思いながら、三柱神社に到着です。京都の蚕ノ社には三柱鳥居があり、また同じような命名の仕方だと思えてしまいます。

049_convert_20101118154510.jpg
三柱神社の解説板。

解説板などないかと思いましたが、意外にも比較的新しく読みやすいものでした。藤野町小渕が秦氏の居住地であると良く理解できます。

051_convert_20101118154642.jpg
拝殿です。

昭和53年に拝殿の改築が行われているため、それほど古びた感じはありません。拝殿の横に廻ると、改築の際神社に寄進された方の名が木札に記されています。木札には、秦さんの名前が見られます。2名の秦さんがいました。実際には4、5軒秦姓のお宅があるようです。

053_convert_20101118154841.jpg
木札です。個人のお名前ですので塗りつぶし加工をしています。

秦の神様に拝礼して帰ろうと思ったのですが、ふと見ると足元に一体の石像が…。

052_convert_20101118154754.jpg
石像です。

これを見て思わず腕を組み、首を傾げてしまいました。顔の造作は少女っぽいのですが、着衣はどう見ても日本のものとは思えません。また腕を曲げ胸に手を当てているように見えます。いかがでしょう?マリア像そのものに見えないでしょうか?

この像はそれほど古いものでもなさそうです。多分近年になって誰かが置かれたのだろうと思います。よその地区の方が勝手に置くなど考えられないので、地元の方の手によるものでしょう。秦氏の中には原始キリスト教の要素も含まれているので、そうした意識が反映されてこの像を置くことになったのでは、と想像するのですが、誰かご存知の方がおられたらお教えいただきたいところです。

藤野町小渕には徐福伝承もあります。以下は水源地域交流の里づくり推進協議会ホームページよりの引用です。

「秦の始皇帝の命を受けた除福が不老不死の霊薬を求め、日本に渡来した。出発するとき始皇帝から尊像を与えられた。しかし、除福の努力は報われず、霊薬は発見されないまま帰国することになった。そこで除福は、始皇帝の尊像を鷹取山(たかとりやま)の大岩の下に納めて当地を去っていった。」
その後、誰と言うとなく尊像を「大明神」と唱えて祀り、慶長年間(1596~1614)に村里に移された。江戸幕府が神社仏閣の取調べを行ったとき、その由来を村人が申し立て「唐土」の二字を加え唐土大明神となりました。


つまり、唐土大明神とは始皇帝と言うことになります。秦氏が先祖を秦の始皇帝、あるいは徐福と自称しているのは、このような話が元になっているのではないでしょうか?

では、なぜ始皇帝と徐福を自分の先祖に仕立て上げたのでしょう?「秦氏の謎を解く」で明らかにしましたように、秦氏は死と再生に係わっています。一方で始皇帝と徐福は不老不死に係わっています。自分の追及しているものと同様のものを追及した始皇帝と徐福は、秦氏にとって都合の良い存在だった、だから自分たちの先祖に祀り上げたのです。もちろん、始皇帝の築いた帝国が秦であるのも理由の一つとして想定されます。

小渕には以上のように徐福伝承があります。でも、だからといって徐福がこの地に来たということではありません。富士吉田に定住していた秦氏が、800年の富士山大噴火の際、大月から小渕に至りメンバーの一部がここに定着したので、徐福伝承が発生したのが真相だろうと思われます。主力部隊は相模川に沿って下り、寒川に入ったか、あるいは丹沢のヤビツ峠を越えて秦野に入ったものと思われます。

このため秦野にも徐福伝承があり、秦野秦氏の一部が酔石亭主居住地である藤沢市に入り羽鳥に定着したため、既にご紹介した様に妙善寺にある某家のお墓の石碑には、徐福の子孫は秦氏と彫られている訳です。

徐福伝承は熊野地方が最も濃厚で、それが東三河から富士山周辺、小渕、秦野、藤沢などに伝播・拡散していったものと思われます。秦氏の痕跡のある場所を訪れると、その流れが目に見えるようです。言い換えれば、徐福伝承の存在は徐福が渡来したことを証明するものではなく、秦氏が担って持ち運んだものであること、つまり秦氏の移動経路を証明するものなのです。

いつの日か徐福の渡来を証明できればいいのですが、それは今のところ歴史ロマンとしておきましょう。

                 ―相模国の秦氏 その10に続く―
スポンサーサイト



プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
10 | 2010/11 | 12
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる