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三島由紀夫割腹自殺の謎を解く その3

日々の雑感
11 /27 2010

三島が行き詰った輪廻転生の話は、他の作家によりいくつかの考え方が示されています。例えば、手塚治虫の「火の鳥」(角川文庫)、光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」(角川文庫)などですね。

手塚は壮大なストーリーの「未来編」で、火の鳥のこう語らせます。

生物が滅びて また現れて 進化して 栄えて 滅びた…… 火の鳥の目のまえで何度くりかえされたことだろう……中略…… でも「今度こそ」と火の鳥は思う 「今度こそ信じたい」 「今度の人類こそきっとどこかで間違いに気がついて……」「命を正しく使ってくれるようになるだろう」と……

何度読んでも、シンプルでありながら奥深いエンディングで、書かれてから40年以上も経過しているのに、いつまでも古びない物語です。手塚は、宇宙創成から生物が進化し滅びる何度とない繰り返し、つまり輪廻転生の中で、いつか現れる人類は滅びに至らない正しい道を進んで欲しい、と火の鳥に語らせます。

ここでは主人公のマサトが長い旅路の果て、生命の進化を、空間と時間を超越して見守る存在=神になっていき、それを更に超越する立場で見守る存在として火の鳥がいます。手塚は「火の鳥」と言う輪廻転生の物語で希望を語っているのです。

一方光瀬龍は、以下のように「百億の昼と千億の夜」を完結させます。

この世界の変転は実はさらに大いなる変転の一部に過ぎないのであり、それすらさらに広大なるものの変転を形成する微細な転回の一つにしか過ぎないというのか。…中略… とつぜんはげしい喪失感があしゅらおうをおそった。進むもしりぞくもこれから先は一人だった。すでに還る道もなく、あらたな百億の、千億の日月があしゅらおうの前にあるだけだった。

「百億の昼と千億の夜」では破滅を意図する存在と何者かの指令で戦うあしゅらおうが、その戦いの果て、自分が変転すなわち輪廻転生の内部にありながら、すでにその変転をはるかに超えていることを知ります。そのあしゅらおうにも、はや還る道とてなく、あらたな百億、千億の日月があるだけだった、と結ばれます。

光瀬の物語には無常観が色濃く漂っています。シュメールに始まるメソポタミア都市文明の展開が、その発展のうちに破滅へと至る道筋を内包しているとしたら、滅びは必然であり、それを克服しようとするいかなる試みも空しく、無に帰すると考えるのです。輪廻転生の外にある超越者でさえ、その行く手には荒涼とした永劫の道しかないという、諦めにも似た感傷で物語が締めくくられています。

輪廻転生は究極的には人間の認識力を越える話ですから、長い物語の結論は、結局自分の内なる感覚を語るしかありません。手塚は希望で、光瀬は諦観で語っています。つまり一定の結論が出ているのです。一方三島は最後に輪廻転生もない、何もないと語り、一定の結論に至らず物語が破綻したまま幕切れとさせてしまいました。

ではここで、三島の作品の中身を結論が出る形に少し変えてみたいと思います。「暁の寺」の主人公はタイの王女ジンジャンですが、本多は、彼女が生まれ変わりである確証を得られませんでした。だったら、この主人公を今でも生まれ変わりの話があちこちにあるミャンマーの少女として設定したらどうでしょう?

ミャンマーの北部にはパガンという仏教三大遺跡の一つがあります。周辺の人々はごく自然に仏教を信仰し、来世のためにパゴダを建てたりしています。そんな環境ですから、生まれ変わりの話が、遠い過去の伝承としてではなく、ごく最近まで現実にありました。以下は酔石亭主のストーリーです。

本多はパガン遺跡を訪れ、村の少女の脇腹に黒子があると知り、輪廻転生の実在を確信します。そして「天人五衰」は前三つの物語のまとめですから、門跡(=聡子)と面会した本多は清顕、飯沼、ミャンマーの少女の話を物語ります。門跡は本多の話と同じ夢を見たと言い、ほんに不思議な、と答えます。本多は門跡の言葉から、ヒンドゥーの世界観を思い出します。

(大海にまどろむビシュヌ神のへそから宇宙を創造するブラフマ神が生まれた。ブラフマ神は百年の寿命が尽きると宇宙を消滅させる。ブラフマ神の一年は普通の神々の43億2千万年に当たる。普通の神々の一年は人間の360年だから、ブラフマ神の寿命は1兆5千552億年となる。だがビシュヌ神にしてみれば、このほとんど永劫と思えるブラフマ神の寿命をもってしても、一日の昼までしかない。ビシュヌ神が夜寝たときブラフマ神は消滅し、翌朝まどろみから覚めると、再びブラフマ神が誕生する。ヒンドゥーの宇宙観では、人間の世の輪廻転生は大きな転生の一部であり、その大きな転生もさらに大きな転生の一部に過ぎないのだ)

つまり、主役は輪廻転生する清顕、飯沼、ミャンマーの少女、門跡はその物語を己の中に内包するブラフマ神、本多はその無限の転生を外から眺める絶対者ビシュヌ神。これで物語は真の完結を迎えるはずです。

では、内容を変更し物語を完結させたら三島は自殺せずに済んだのでしょうか?ここが一番の難問です。なぜなら三島のような天才にとって、小説の体裁を整え完結させるなど、何の雑作もなく簡単にできるはずのことだからです。三島はなぜか、できるはずのことをしなかったのです。

三島なら完結できるはずなのに、そうしなかったのはなぜでしょう?手塚と光瀬は輪廻転生の物語を完結させました。一方の三島は、物語を破綻させざるを得ない状況に追い込まれてしまったと想定されます。そうなった原因は、物語が破綻した「暁の寺」にあるはずですが、この点は一旦横に置いて議論を進めましょう。

          ―三島由紀夫割腹自殺の謎を解く その4に続く―


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酔石亭主

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