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相模国の秦氏 その10


その9で石楯尾神社(いわたておのじんじゃ)について書く予定だったのですが、なかなか一筋縄ではいかない神社で、アップが大幅に遅れてしまいました。また、8月20日のカテゴリ「日々の雑感」記事タイトル「夏祭り」でも、藤沢市の皇大神宮の摂社である石楯尾神社を取り上げ、近いうちに調べてみる旨書いたのですが、そこから数えると3カ月以上経過もしています。遅ればせながら、名倉にある石楯尾神社をご紹介します。


中央本線藤野駅の少し先を右折し桂川を渡ります。(この辺りはもう桂川と言うより相模湖の一部と考えられます)そしてもう一度右折すると名倉という地区に入ります。三柱神社から見ると桂川を挟んで南側のエリアとなります。三方を川に挟まれ、南側が山地という隠れ里のような場所に石楯尾神社が鎮座しています。


大きな地図で見る
グーグル画像です。上の端に三柱神社、下の端に石楯尾神社があります。

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神門です。

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拝殿です。朱塗りの立派な建物です。

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扁額です。

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拝殿を横から。中国風の装飾が施されています。

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拝殿の周囲には数多くの摂社が並んでいます。

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解説板です。

どうも元は磐座信仰から始まったようですが、崇神天皇や応神天皇も出てくるのでかなり古い神社のようです。磐座に関しては以下Wikipediaより引用します。

磐座(いわくら)とは、日本に古くからある自然崇拝(精霊崇拝・アニミズム)である古神道のなかの一つの信仰をさす。
巨岩に対する基層信仰の一種である。自然への信仰の例は岩以外にも、禁足地としての鎮守の森(モリ自体が神社をさし、杜は鎮守の森自身である)や山に対する信仰、火(火山)に対する信仰である三輪山や富士山などの神名火(カムナビ)、滝などから、風雨・雷という気象現象までの多岐に渡るものである。
岩にまつわるものとして他にも磐境(いわさか)があるとされるが、こちらは磐座に対してその実例がないに等しい。そのため同一のものと目されることもある。日本書紀では磐座と区別してあるので、磐座とは異なるなにか、「さか」とは神域との境であり、神籬の「籬」も垣という意味で境であり、禁足地の根拠は「神域」や「常世と現世」との端境を示している。
神事において神を神体である磐座から降臨させ、その依り代(神籬という)と神威をもって祭りの中心とした。時代とともに、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが、元々は古神道からの信仰の場所に、社(やしろ)を建立している場合がほとんどなので、境内に依り代として注連縄が飾られた神木や霊石が、そのまま存在する場合が多い。
現在ではご神木などの樹木や森林または、儀式の依り代として用いられる榊などの広葉常緑樹を、神籬信仰や神籬と言い、山や石・岩などを依り代として信仰することを磐座という傾向にある。


ご祭神は石楯尾大神。解説板の内容だけではよくわかりません。そこで、平成7年の神社庁全国調査での御由緒を見ると、大略以下となります。

この世のはじめ、天地創造の折に、神々が国の鎮めとなさっておくだりになった、天然の神籬磐境の「エボシ岩」を人々が尊んで、拝み仕えまつった祭政一致の生活の行なはれた所が京塚山の頂上にあった。ここが富士神界の中心地・高御座であった。このエボシ岩の脚部の岩盤が西にのびて地上に現れ出た所が石楯であり、ここが産土路にあたり古代人が神を斎きまつった所・斎庭として人々の崇敬の中心となり、崇神天皇より古くから総産土神としてお社が設けられた様であり…以下略。

やや難解ですが、Wikipediaよりの引用を先にお読みいただければ、理解しやすいと思います。富士神界は霊能系やスピリチュアル系が好んで使用する言葉で、論理性がなくほとんど意味不明です。なぜ石楯尾神社が富士神界なのかもよくわかりません。この点はじっくり考えていきたいと思います。

石楯尾神社は、藤野町佐野川、藤野町名倉(今回訪問した場所)、相模原市磯部、相模原市下鶴間、座間市入谷、相模原市大島、藤沢市にそれぞれ石楯尾神社として、あるいは諏訪神社などとして存在しています。この神社は相模国式内社13社の一社で格式が高いのですが、7社ある石楯尾神社のうちどれが式内社に該当するのかいまだに不明となっています。

佐野川は上野原の北で丸畑という秦氏的地名の近くにあります。名倉は桂川を挟みますが三柱神社とはすぐ近くになります。そして相模原市、座間市と相模川に沿って下るような形で鎮座し、藤沢で行き止まりとなっています。

佐野川にある石楯尾神社の御由緒は以下の通りです。

第12代景行天皇の庚戊40年、日本武尊東征の砌、持ち来った天磐楯 (あまのいわたて)を東国鎮護の為此処に鎮め神武天皇を祀ったのが始まりである。石村石楯は高座郡の県主で当地の住人であった。第47代淳仁天皇の天平宝字8年(764年)、先の太政大臣藤原恵美押勝反逆の折、貢の為上京中で押勝の首をとり乱を鎮めた功により高座、大住、鮎川、多摩、都留の五郡を賜ったと言われ、石楯尾神社の保護者であった。以下略。


ご神宝が石器で、ご神体は巨石とのことで神社の名前にふさわしいものとなっています。やはりここも磐座信仰が原点のようです。

一方、大島の諏訪神社(石楯尾神社)には次のような伝説が伝わっています。

神社の娘でおそよという養女がおり、男が通ってきた。おそよは身重となり母親に打ち明けた。母親は糸の先に針をつけ、男の着物に縫いつけさせた。おそよが針を縫いつけると、男は恐ろしい目つきとなり去っていった。糸を辿ると下大島の白森稲荷の椎の根の洞穴に入っていた。その中で話し声が聞こえた。父親が稲荷の空洞に行ってみると中で大蛇が死んでいた。蛇と話していたのは白森稲荷の天白狐稲荷大明神で、子は蛙に喰われると言っていた。母親は盥の中に蛙をはなし、おそよにそれをまたがせて子供を産ませ、蛙に喰わせた。(相模原の民話伝説)


この伝説は丹塗矢である大物主神の話と全く同じです。同じ系統の神社に様々な要素が混入しているように思えます。伝承からすると佐野川の石楯尾神社が式内社のようにも思えますが、格としては名倉に軍配が上がりそうです。

祭神の石楯尾大神は石村石楯で、この人物に関しては以下Wikipediaより引用します。

石村氏は、三河国碧海郡に定着した漢系渡来氏族で、仁徳朝に渡来した阿智使主に随い来日した者に石村村主の祖にあたる人物がいたという。一説では後漢第7代皇帝少帝懿の後裔で、阿智使主に随い来日した古那を祖とし、石村の呼称は大和国磐余の地に因むものとされる。
天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)に際して、敗北し妻子3,4人とともに船で琵琶湖上に逃れた恵美押勝(藤原仲麻呂)を捕らえてこれを斬り、押勝の首を京に運んだ。石楯はこのとき軍士、つまり一兵士であった。この功績により、大初位下から一挙に従五位下に昇叙され、翌天平神護元年(765年)正月には、勲二等から六等までの乱の功賞があった中で、石楯は勲四等を与えられた。


社殿の装飾が中国風だったのは石楯が漢系渡来氏族であったためかもしれません。少し気になるのは、石楯が従五位下に特進したのと同時に、鎌倉の始祖である染屋太郎大夫と同一人物と目される相模国造漆部直伊波も従五位下に任命されていることです。

縄文時代の磐座信仰がベースになり、漢系渡来人の石村石楯が祀られて地元の総産土神として崇敬を受けたということでしょうが、どうもすっきりしません。すっきりしないのは多分、秦氏のような祭祀氏族がいないことによると思われます。また富士神界といった言葉は近年の造語のはずで、過去の歴史を反映しているとは必ずしも思えません。

残るは地理的要因を見るしかなさそうです。この神社から少し南に下ると葛原神社があります。葛原と来れば葛原親王かと思いますが、関係はなさそうでした。

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葛原神社です。

ところがこの神社、かつては月夜見神社と呼ばれていたそうです。月夜見とは月読ですから秦氏と関係が深く、しかも京都における月読神社は桂川近くに鎮座しており、同神社解説板によれば以下の通りです。

月読神社が京都へもたらされるにあたっては渡来系氏族、なかでも山城国と深く関係する秦氏が関わった可能性が強く、古代京都の神祇信仰やまた渡来文化を考える上で重要な意味をもつ神社であるといえます。


佐野川の石楯尾神社の近くには丸畑があり、名倉の石楯尾神社の北には秦氏の三柱神社があり、かつ南には葛原神社(月読神社)があるという地理関係から、名倉の石楯尾神社はまるで秦氏系に挟まれて存在しているようにも感じられます。

さらに、富士山麓にいた秦氏が大噴火により大月方面に移動し、藤野町に一部が定着したとすれば、富士神界という言葉の背景として秦氏の存在があったとも思えてきます。もう一点、石楯尾神社の所在地が、佐野川、名倉から相模原市、座間市、藤沢市と相模川に沿うような形で南下している点も気になります。あたかも、秦氏の移動に沿うような形で点在しているからです。しかも、相模川の少し下流の津久井湖近くにも月読神社があり、嵐山まであります。秦氏の移動経路が目に見えるように感じられます。

なお、石楯尾神社がある名倉には、芸術の道があってあちこちに変わった形の芸術作品が置かれています。

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スターウォーズに出てくる戦闘ロボットみたいです。

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こんなものもあります。

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名倉の案内板。

道沿いには立派な学校があり、シュナイター学園と言います。ルドルフ・シュナイターの教育理念に基づいて教育する学校です。シュナイター教育について以下Wikipediaより引用します。

人間の魂から身体までを、意識の座である自我、感情と印象の座であるアストラル体、生命の座であるエーテル体、物質から成る肉体の4層に分けて理解する。肉体が誕生しても他の3層は未分化の状態であり、7歳のときにエーテル体が自律、14歳のときにアストラル体が自律、21歳のときに自我が自律するとされる。(それ以降も人間の成長は続くが、ここでは教育のみに話をしぼるため割愛する。)従ってその各段階に分けて人間の成長を理解することが重要視される。
魂はさらに意志・感情・思考(表象活動)の3つの領域から理解され、それぞれの発達にふさわしい時期にその能力を伸ばすよう、配慮されている。
シュタイナー教育(しゅたいなーきょういく)とは、20世紀はじめのオーストリアの神秘思想家ルドルフ・シュタイナーが提唱した教育思想および実践を日本で紹介する際に名付けられた呼称である。


何度読んでも酔石亭主にはほとんど理解不能ですが、なぜシュナイター学園がこの名倉に建設されたのでしょう?富士神界とシュナイター教育、そして芸術作品。いずれもスピリチュアルな部分で通底しており、相通じるものがありそうです。富士神界のある名倉こそがシュナイター教育や芸術作品にふさわしいと考えて決めたとしたら…、やはり不可思議な要素がこの地にあって、関連するものが引き寄せられているのかもしれません。今後も目が離せませんね。

葛原神社裏手から見る甲州の山並みは絶佳ですし、三柱神社や徐福伝承も含めテレビ番組で取り上げれば、訪問客も一挙に増加するはずです。ちなみに、石楯尾神社の寄進者には名倉さんが多く、名倉と言えば接骨院で有名です。

以上あれこれ書きましたが、結局まとまりのないご紹介になってしまいました。

                  ―相模国の秦氏 その11に続く―

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