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相模国の秦氏 その11


「相模国の秦氏 その10」を読み返すとやはり纏まりがないこと甚だしく思え、補足も兼ねて「その11」を書くこととしました。

東海と山梨も部分的に含めた相模国の秦氏の動きは大略以下のようになると思われます。

延歴19年(800年)の富士山大噴火により、山中湖から富士吉田一帯に居住していた秦氏は大月方面に向けて移動を開始します。ルート的には中央自動車道河口湖インターから大月ジャンクションに至る経路にほぼ沿っています。大月においては、多くの秦氏的地名から推察できるようにかなりのメンバーがここに定着したのでしょう。

その後、メンバーは大月から桂川沿いに下り藤野町小渕に至ります。彼らはこの地に三柱神社を鎮座させ、徐福伝承を残し、名倉地域においては葛原神社にも関与します。秦氏はさらに桂川に沿って下ります。

さがみ湖ピクニックランドに隣接して海抜406mの嵐山があり、対岸のやや下流部には月読神社が鎮座し、周辺には奥畑や南畑といった秦氏系の匂いがする地名もあります。この辺りはもう相模川になるのですが、さらに少し下ると支流となる道志川が流れ込んでいます。

これはあくまで酔石亭主の推測ですが、当時桂川は道志川との合流点以降で相模川に名を変えていたのではないでしょうか?嵐山と月読神社が合流点の手前にあるのがその理由です。また秦氏は道志川方面に向かうメンバーと相模川沿いに下るメンバーとが合流点で分かれました。重要な地点・分岐点で川の名前を変えるのはしばしば見られることです。京都にある桂川の例を、以下Wikipediaより引用します。

「山城国風土記」(逸文)や「日本後紀」によると、京都盆地流入以南の桂川は、古くは葛野川(かどの)と呼ばれていた。古代、嵐山周辺の桂川の流れは現代とはやや異なるものだったと考えられている。そのこともあり洪水に苦しめられたようだ。嵯峨や松尾などの桂川流域を支配していた秦氏が、6世紀頃に桂川に堰堤を築いたとされる(葛野大堰)。とくに下嵯峨から松尾にかけて桂川東岸に築かれた堤は罧原堤(ふしはら)と呼ばれる。「秦氏本系帳」によると、これら堰堤完成の際に、それまでの葛野川から大堰川と呼ばれるようになったとある。
その後、嵐山周辺および上流域では大堰川、あるいは大井川(大堰と大井は同義である)、嵐山下流域以南では桂川、あるいは葛河(かつら)と称されるようになった。


道志川を遡ったメンバーは丹沢に向かい、札掛けからヤビツ峠を越えて秦野に入ったものと推定されます。秦野に入ったメンバーはこの地に定着、後世になり徐福の子孫との位牌を残し、そのメンバーが藤沢の羽鳥にまで移動して、妙善寺に徐福末裔としての碑を残します。神奈川における徐福伝承ですね。

一方相模川沿いを下るメンバーは、多分石楯尾の神もついでに持ち運び、相模原や下鶴間に石楯尾神社を創建させ、寒川に至ります。寒川には寒川文書が残り(洪水により失われ現存はしていません)それには徐福伝承が書かれていました。

寒川から少数のメンバーが用田(寒川神社所領の御用田があったことから付けられた地名)、葛原(秦福代が同行した葛原親王の葛原)、大庭(平安末期に鎌倉権五郎景政により拓かれ、伊勢神宮に寄進された場所)を経て藤沢に入り、秦野から藤沢に入ったメンバーと合流します。

そして、現在は皇大神宮に同座する最後の石楯尾神社が大同3年(808年)に創建されるのです。800年の富士山噴火から足掛け8年で秦氏は酔石亭主の居住地である藤沢に至り、その後鎌倉に入って佐助ガ谷の住人としてひっそり暮らし、頼朝が鎌倉幕府を開くのに手を貸しました。秦野からのメンバーの一部は本郷台に入って仙福寺を創建し、秦川勝が開基したものだとの伝承を残します。

以上、相模国における秦氏の移動経路(もちろん推定です)を簡単に纏めてみました。但し、相模国国守には秦氏系の人物が数人いて秦井出乙麻呂は天平15年(743年)に国守となっており、800年より以前であること、また大磯には高麗山、高来神社(=高麗神社)、秦野に繋がる金目川、唐ヶ浜など渡来系に関連する地名もあって、陸上あるいは海上ルートで800年以前に秦氏系がこの地に入っているのは間違いありません。

つまり、秦野から逆ルートで富士山北麓に入った可能性も否定できないのです。両方の可能性を証明するかのように、秦野には唐子さんが大磯から上陸して秦野に定着したという伝承と、丹沢から降りて定着したという二つの伝承が存在しています。

ただ、大月や藤野町、津久井に秦氏の痕跡があるのは、富士の噴火から逃れて移動し、相模川沿い及び丹沢の山越えで、それぞれ寒川と秦野に入ったからだとするのが、説明としては合理的ですっきりします。なお、富士山麓の徐福伝承は山中湖畔、河口湖畔、富士吉田市にありますが、既にネット上で多くの記述がなされていますので、それらをご参照ください。

話は変わりますが、実はもう一点大きな問題があります。酔石亭主は、徐福伝承は秦氏が担ったものとしていますが、それは本当に正しいのでしょうか?東海から相模国にかけての徐福伝承は間違いなく秦氏が担っています。でも、それ以外の地域ではどうでしょう?視点を日本全体に広げた場合、違う側面が出てくるかもしれません。

例えば、九州における秦氏最大の拠点豊前国や、豊前から瀬戸内海を渡り大和に入るまでの、備前、播磨、そして大和(田原本町一帯)のいずれにも徐福伝承は存在していません。唯一徐福伝承らしきものがあるは、備中福山です。以下、倉敷市の観光情報サイト「ゆったり倉敷」より引用します。

総社市と倉敷市にまたがる備中福山(標高302メートル)は南北朝、足利氏の古戦場として知られていますが、南麓朝原郷(現在の浅原)、安養寺は平安時代より、徐福渡来の蓬来山、七福神の里として、祈りを現代に受け継いでいます。


安養寺は倉敷市浅原にあり、浅原は朝原郷です。「続日本紀」には、「宝亀7年(776年)2月25日条に、山背国葛野郡人秦忌寸造等97人に朝原忌寸が賜姓された」との記載があって、朝原郷は秦氏系列の地名と考えられることから、この地の徐福伝承もやはり秦氏が関与しているものと思われます。また備中福山の福山は、徐福の三男である福山に由来する可能性もあり、これらを総合すると徐福伝承の萌芽が見られると判断されるのです。

大和に入った秦氏は雄略天皇期に賀茂氏と共に岡田、乙訓、深草などを経て京都に入っています。これらのルートは、相模国における秦氏の移動と比較してはるかに重要な古代の移動経路ですが、そのいずれにも徐福伝承は存在しないのです。

一方京都大酒神社の解説板には秦氏の祖先は始皇帝と書かれています。秦氏の主力部隊は徐福伝承を持っていないが、別動部隊は持っていたと考えるべきでしょうか?あるいは、ある時点で秦氏が徐福伝承を取り込んだのでしょうか?その場合、いつ頃、どの場所で徐福伝承と秦氏が合体したのかを特定する必要があります。また、どれが秦氏と合体前の本来の徐福伝承なのでしょうか?この点もはっきりさせる必要があるでしょう。

残念ながら、手持ちの情報が少なすぎること、紀州や熊野、九州など徐福伝承が最も濃厚な地域をまだ訪問していないことなどから、現時点での特定は困難と言わざるを得ません。ここは将来の研究・検討課題としておきましょう。
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