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新田義貞鎌倉攻めの謎を解く その1

新田義貞鎌倉攻めの謎を解く
12 /09 2010

「七里ガ浜の磯伝い、 稲村ケ崎名将の、剣投ぜし古戦場」という小学唱歌があるのは皆さんもご存じのことと思います。名将の名は新田義貞。討幕の兵を挙げた義貞は怒涛の進軍を開始しますが、鎌倉の一歩手前で堅固な幕府方の防御陣に阻まれてしまいました。

そこで義貞は太刀を龍神に捧げ海に投げ入れます。するとあら不思議、潮が沖の方へと見る間に引いていき、広々とした干潟が現れたのです。これぞ神の御加護と、新田軍は勇躍稲村ケ崎の干潟を渡渉して鎌倉に乱入。最後の執権・北条高時は東勝寺にて一族郎党と共に自害し、鎌倉幕府は滅びました。西暦1333年5月22日のことです。

驕る平家は久しからずではありませんが、頼朝が1192年(諸説あり)に開いた鎌倉幕府も、140年の歳月を経て遂に終焉を迎えたのです。

鎌倉の始まりに関しては鎌倉の地名由来や鎌倉の始祖である染屋太郎大夫時忠、頼朝などを通じて検討してきました。しかし鎌倉の終焉については、簡単に触れただけで、まだ検討が不十分なままとなっています。鎌倉終焉の真実はどのようなものだったのか?酔石亭主は、鎌倉の始まりと終わりはひと繋がりのものであるという認識を持っています。

それを果たして論証できるのかどうか、新田義貞の鎌倉攻めを主に取り上げつつ、今回からその謎解きに挑戦したいと思います。記事タイトルは上記の通りですが、実際には義貞の鎌倉攻めを通して、その背後に隠された謎に迫るという趣旨です。

本論考を書くに当たり、酔石亭主はまず、一般的に言われる義貞の稲村ケ崎渡渉はなかった、鎌倉侵入に当たり義貞は由井の民の支援を受けていた、という仮説を立ててみました。以降は、その仮説に沿った形で検討を進めます。では歴史を遡り、義貞が稲村ケ崎を渡渉したとされる元弘3年(1333年)5月21日にワープしましょう。

注:稲村ケ崎、稲村ヶ崎、稲村ガ崎などの表記がありますが、本ブログでは稲村ケ崎を採用します。

新田義貞の稲村ケ崎渡渉伝説は誰でもご存知のことと思います。ただ関東圏の方ならともかく、他地域の方の場合、実際に行ったことがない方も多数おられるはずなので、まずは稲村ケ崎の写真をアップします。

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稲村ケ崎全景写真。

では、次の写真をご覧ください。

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七里ガ浜その1。

この写真は稲村ケ崎を背にして西側を撮影したものです。一般的に義貞は、この写真を撮影した稲村ケ崎の岩場辺りで龍神に祈ったとされています。

写真右側の真ん中よりやや下からコンクリートが2本出ていますが、これは砂鉄が流れ出る極楽寺川の河口です。産鉄・鍛冶を生業とする特殊技能民・由井の民の居住エリアは、この極楽寺川に沿った谷戸に存在しています。

極楽寺川河口から先は、かなり湾曲して海岸線が続いています。皆さんご存知の七里ガ浜で、二つの山というか丘陵が海に向かって下っているのがわかりますね。遠くには富士山がうっすらと見えています。

そして丘陵の先端部は134号線の下を越えて岩盤を露出させています。この写真ではわかりにくいので、次の写真を参照してください。

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七里ガ浜その2。

134号線の下に丘陵から続く岩盤が出ているのが見えるはずです。岩盤周辺の砂浜は少し盛り上がって、岬のように前に出ている点に注目ください。この丘陵は海の中に潜ってもまだその下には岩盤が続いていると想定されます。写真の左端には富士山が半分ほど写っています。ここまでご理解いただいた上で、次の錦絵を見てください。

稲村ケ崎
錦絵の写真

新田義貞が稲村ケ崎で太刀を捧げている瞬間が描かれています。錦絵は江戸時代のものと思われますが、まず一番遠景の線のみで描かれている山を見てください。線のみで描かれた山の右端が富士山を表していると思われます。

すると富士山の手前に描かれた丘陵が「七里ガ浜その1」の写真でご説明した二つの丘陵ということになります。一点問題は、江の島が見当たらないことですが、この画面に江の島が入ると絵の全体バランスが間違いなく崩れます。

絵師はその点を考慮して江の島を外したものと推測されます。その傍証として、「七里ガ浜その1」の写真をもう一度ご覧ください。この写真の中に江の島はありません。では、次の写真で江の島を入れてみましょう。

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七里ガ浜と江の島。

いかがでしょう?丘陵から江の島まで結構距離があるように感じられませんか?この距離感では、錦絵の中に江の島を収めようとしても、絵の外にはみ出すか、あるいは一部分しか入れられません。

実景では江の島は当然存在します。しかし、絵師がそれを絵という限られた枠の中に収めようとする場合、無理が出るのです。絵師の心理としては、それぞれの景をバランス良く画面に配置することが最も重要です。江の島を入れるとそれが崩れてしまう。よって江の島は描かれなかったと推測されるのです。上記のように江の島問題を整理すれば、実際の遠景、中景と絵はほぼ重なっており特に問題はないと理解できますね。

ところがです。錦絵の方は新田義貞の頭の辺りから、画面をはみ出すほどの高い崖が天に向かって描かれています。ここで「七里ガ浜その1」の写真をもう一度見てください。こんな高い崖などどこにも存在していません。じゃあ、この断崖は一体何だ、ということになってしまいます。

崖の一番奥側のラインが多分、稲村ケ崎に該当するのです。錦絵が正しいと仮定すると、新田義貞は既に稲村ケ崎を越えたどこかで初めて龍神に祈り太刀を海に投げ入れたことになります。もう稲村ケ崎渡渉伝説に矛盾が生じてしまいました。新田義貞は稲村ケ崎を海側から越えてはいないのです。

ではこの矛盾をどう考えれば良いのでしょう?矛盾があれば矛盾がないように場所の位置関係と渡渉伝説ストーリー全体を再構成すれば良いのです。それが歴史の謎解きの基本です。


大きな地図で見る

グーグル画像です。

一般的に、新田義貞はこの稲村ケ崎の先端を海から越えたとされています。稲村ケ崎西側の134号線のマーク辺りが丘陵に相当します。稲村ケ崎駅入り口と稲村ケ崎公園前の間に極楽寺川も見えますね。

注:このシリーズでアップする写真は、それぞれの撮影時期が異なるものを使用しています。従い、同じ記事中の写真で季節感が合わないケースも出ますがご了承ください。

              ―新田義貞鎌倉攻めの謎を解く その2に続く―
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酔石亭主

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