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新田義貞鎌倉攻めの謎を解く その3


前回で義貞が太刀を龍神に捧げたのは稲村ケ崎ではない、しかし稲村ケ崎から鎌倉寄りのどの場所からも七里ガ浜の丘陵は見えない、という矛盾点が明らかになりました。もちろんこの手の錦絵には見栄えを良くするデフォルメが必ず施されています。

しかし一方で、遠景と中景はほぼ実景通りに描かれていました。とすると、近景もデフォルメはあるものの実景とそうかけ離れてはいないと考えるべきでしょう。

では、どうこの矛盾を解消させるのか?答えをすぐに出すのはかなり難しそうです。従って問題の解決は一旦横に置き、5月21日の義貞鎌倉攻めに至るまでの状況、新田、鎌倉幕府両軍の布陣などを見ていきましょう。なぜなら、これらも義貞の鎌倉侵入経路を探る上で極めて重要な要素だからです。

そこで、元弘3年(1333年)5月8日まで時計の針を戻します。この日、新田義貞は討幕の兵を挙げるのですが、その後の経緯は「太平記」に沿って見ていきます。

新田太郎義貞は三月十一日、後醍醐天皇の綸旨(りんじ=蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書)を頂き、五月八日生品明神の前で旗上げをして百五十騎の軍勢にて打って出た。それに上野、下野、常陸、上総など各地の軍勢が集結して、夕方には総勢二十万七千余騎にまで膨れ上がった。十一日には入間川を渡り、十六日には分倍河原の戦いに勝利した。

義貞の軍勢は六十万七千余騎にまで増え、これを三手に分け、大館二郎宗氏、江田三郎行義を大将として極楽寺の切通へ、堀口三郎貞満、大島讃岐守守之を大将として巨福呂坂へ、義貞、義助が仮粧坂へ向い三方から攻めかかった。

本間山城左衛門は大仏奥州貞直の家来で、極楽寺の切通が破れて敵が攻め込んで来ると聞き、百余人の家来を引き連れて極楽寺坂に向い、寄手の大将大館二郎宗氏の首を取った。(五月十八日)

極楽寺の切通で大館二郎宗氏が本間に討たれ、軍勢は片瀬腰越まで退いたと聞いた新田義貞は、兵二万騎余りを引き連れ、二十一日の夜半頃、片瀬腰越を廻って極楽寺坂へ出て来た。敵の陣は、北は切通まで山が高く聳えて、嶮しい路へ門を作り、楯を立て五、六万の兵が布陣していた。南は稲村崎の砂浜の狭い道に、波打際まで逆茂木を立て、海上は四五町沖まで大船を並べ射かけようと構えている。

ここで義貞は兜を脱ぎ、龍神に祈り、腰にかけた黄金作りの太刀を抜いて海中へ投げ込んだ。するとこれまで干上がった事のない稲村崎が急に二十余町も干上がって、砂原が広々と開け、横矢を射かけようと待ち構へていた五六千の兵船は、沖の遠を漂った。義貞はこれを見て、六万余騎の軍勢を引きつれ鎌倉に攻め入った。


決起してからわずか10日で60万の兵を集め、鎌倉に攻め入る体制を作ったとは、神業に近いと言わざるを得ません。急に60万人にまで膨れ上がった兵糧調達をどう手配したのか大いに疑問のあるところです。実際の新田軍総数は記述の10分の1以下の、数万人程度であったろうと思われます。

仮に相当数の人数だったとしても、鎌倉の山々は、谷戸と所定の尾根道以外は非常に急峻で、待ち構える幕府方の正面には常に小人数しか当たれず、人数が多いだけではいつまで経っても堅固な防衛施設の突破はできません。

「太平記」は読んでみると歴史書と言うより、講談本のように感じられ、史実をきちんと反映しているか疑わしい部分が多々ありそうです。一方「梅松論」は作者不詳ですが比較的客観的に書かれており、両方を比較しつつ軍忠状などを参考にして、この有名な稲村ケ崎渡渉伝説が実際はどうだったのか再構成してみたいと思います。では続いて、「梅松論」を見ていきましょう。

五月十八日の午後二時頃、義貞の勢は稲村崎を経て前浜の家を焼き払ったのが見え、鎌倉十が大騒ぎになりその慌てふためく様子はたとえようもなかった。高時の家人諏訪・長崎以下が懸命に防戦し、新田軍の大将大館宗氏は稲瀬川において討取られた。寄せ手は後退し霊山の頂に陣を取った。同十八日から二十二日に至るまで、山内、小袋坂、極楽寺の切通しなど、鎌倉中の口々で合戦が続き、止むことがなかった。

「梅松論」では、鎌倉が滅んだことを感傷的に書いた後、付け加えるように、「稲村崎の波打ち際の通路が難儀なところに、急に潮が引いて干潟になったのは、仏神の加護と人が言ったそうだ」と続けています。本来なら鎌倉陥落前の段階に書くべき内容を後回しにしたのは、それが伝承に過ぎないことを裏付けているようにも思えます。

その他資料では、
「塙政茂軍忠状」によると、5月20日に霊山で合戦があったと記されています。「三木俊連軍忠状(和田文書)」によると、5月21日霊山寺大門(=仏法寺大門で稲村道に沿った場所にあり)に立て籠もった敵が稲村道の寄せ手をさんざんに射た、とあります。

以上をざっと見てもそれぞれの資料が既に整合しておりません。気になるのは、「梅松論」では大館宗氏を打ちとられた寄せ手は後退し、5月18日霊山の頂きに陣を取ったはずなのに、「三木俊連軍忠状(和田文書)」によると、5月21日には霊山寺(=仏法寺)に籠もった敵が稲村道の寄せ手をさんざんに射た、しかし三木俊連が自ら峯を駆けおりて、大門を打ち破ったとされていることです。

籠もるとは、ずっとそこに居続けている表現のはずで、大館氏の兵が霊山の頂に陣を取った事実と矛盾しています。この問題は場所の位置関係を見る必要があり、もう少し後で検討することとしましょう。

                 ―新田義貞鎌倉攻めの謎を解く その4に続く―
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