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新田義貞鎌倉攻めの謎を解く その4

新田義貞鎌倉攻めの謎を解く
12 /14 2010

5月16日に分倍河原の戦いで勝利した義貞は鎌倉の巨福呂坂、仮粧坂、極楽寺の3方面に軍を進め、自らは仮粧坂攻略軍の指揮を執ります。

そして5月18日には、大館宗氏の軍勢(多分100名以内の小勢)が坂ノ下を越えて海側から鎌倉に侵入するという快挙を成し遂げます。しかし宗氏は、稲瀬川(長谷を流れる小河川)付近にて鎌倉方に討ち取られました。武将の悲惨な最期と言えますが、ここで重要な点は、新田義貞が龍神に祈るまでもなく大館宗氏は海側から鎌倉侵入を果たしたことでしょう。

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十一人塚の石碑です。

石碑は江ノ電七里ガ浜駅からちょっと歩いた場所にあります。珍しく碑文がはっきり読み取れ、日付が5月19日になっています。5月18日に鎌倉侵入を果たし、19日に討ち取られたということでしょうか?この辺は資料がないので不明です。次に稲瀬川の位置を確かめましょう。


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グーグル地図画像です。

地図画像に二本の川が見えますね。一本は坂ノ下寄りで、河口から流れを追うと西にカーブして江ノ電長谷駅のところで北に向かっています。その東にもう一本川があります。この川は134号線のところで消えていますが、それは道路から上流が暗渠になっているからです。さてこの二本のうち、どちらが稲瀬川なのでしょう?簡単そうで実は結構難問です。

ここからは本題を離れ、稲瀬川に関して詳しく見ていきたいと思います。なぜなら有名な割には極めて小さく、しかも謎めいており、結構厄介な川のように思えるからです。まず稲瀬川に関する石碑をご覧ください。

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石碑です。逆光ではっきり読めません。内容は以下の通りです。

萬葉ニ鎌倉ノ美奈能瀬河トアルハ此ノ河ナリ 治承四年十月政子鎌倉ニ入ラントシテ夾リ日並ノ都合ニヨリ數日ノ間此ノ河邊ノ民家ニ逗留セル事アリ 頼朝ガ元暦九年(注:元暦元年のはず)範頼ノ出陣ヲ見送リタルモ 正治元年(注:文治元年のはず)義朝ノ遺骨ヲ出迎ヘタルモ 共ニ此ノ川邊ナリ元弘三年義貞ガ當手ノ大将大舘宗氏ノ此ノ川邊ニ於テ討死セルモ人ノ知ル所 細キ流ニモ之ニ結バル物語少ナカラザルナリ   大正十二年三月建之  鎌倉町青年團

実は坂ノ下寄りの川が稲瀬川とされ、そこから20mほど東の、134号線で暗渠になっている川が美奈能瀬川で、酔石亭主が使っている昭文社の地図にもそのように記載されています。

混乱を招くのですが、石碑は稲瀬川の横ではなく、美奈能瀬川の横にあります。つまり石碑は二本の川を一本のように説明しているのです。また、二本の川が河口でこれほどまでに接近しているのはかなり妙なことです。

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稲瀬川河口。

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美奈能瀬川河口。石碑が見えますね。

美奈能瀬川は134号線から暗渠になってどこへ伸びているのか不明ですが、長谷の第四踏切(長谷駅から鎌倉駅に向かって四つ目の踏切)には次のような表示があります。

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表示板。

つまりこの踏切の下を美奈能瀬川が流れているのです。妙なのは稲瀬川がそこから鎌倉駅側に100mとなっていることです。もっと奇妙なのは染谷時忠邸跡が長谷駅方面へ200mとなっていることです。

この踏切からですと、染谷邸跡は北で、稲瀬川は北西に当たるはずです。ちなみに表示板は線路の海側にあります。表示板では東西しか方向を示せないのでおかしくなったのでしょうか?あるいは設置位置を間違えたのでしょうか?

なお表示板はグーグルアースのストリートビューでもはっきり見ることができますので、興味ある方はチェックしてください。

稲瀬川は大仏方面から流れ下っていると思われますがほぼ暗渠状態で、長谷観音の交差点からようやく開渠した川となります。

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長谷観音交差点の稲瀬川に架かる橋です。

大正15年に架けられた小さな橋で、ほとんどの方は気が付かないと思われます。

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橋近くの古民家を利用した新しいお店です。

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出桁造りの商家も二軒並んでいます。

稲瀬川はこの橋からほぼ真南に流れ下り、長谷駅の手前で急に直角に曲がり、東方向から徐々に南に下って海に注いでいます。

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稲瀬川です。

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上流から見て左方向へ直角に曲がっています。

稲瀬川を直角に曲がりそのまま下ると、長谷駅の裏手に新宿橋という橋があり、稲瀬川と書かれています。

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新宿橋です。

硬い岩盤も丘陵もないのに、川がこのように曲がっているのは、人の手によるものと思われます。長谷駅を建設するとき邪魔だから曲げたのでしょうか?それ以前に曲げたとするならどんな理由で曲げたのでしょう?不可解ですね。

稲瀬川が真っ直ぐなままだとすれば、流れは長谷駅の改札の下を抜けて、そのまま相模湾に注ぐ形になります。その場合、川は長谷の山寄りに流れます。川をわざわざ曲げたのは、水田に水を供給する水利目的だったのかもしれません。

そう考えると、稲瀬川のすぐ横に美奈能瀬川がある理由もはっきりします。美奈能瀬川は水無瀬川とも称され水が少なかった。そこで、稲瀬川の流れを変えて広い耕作地をカバーできるようにした。このため、両方の川が異常接近した場所で相模湾に注ぐこととなった、ということでしょう。

ただそれだけでは、なお疑問があるのです。稲瀬川の川名は明らかに美奈能瀬川(水無瀬川)が転化してできた名のように思えるからです。石碑に書かれているように稲瀬川=美奈能瀬川だとすると、美奈能瀬川とされる現在の川は何なのか、ちょっとおかしなことになりそうです。酔石亭主は以下のように想像してみました。

美奈能瀬川は元来鎌倉文学館辺りの谷戸から流れ出る極小河川だった。しかし利水できるような川ではなかったので、稲瀬川の中流から分水して美奈能瀬川に接続させた。それでも、水量が足りず稲瀬川の川筋を長谷駅のところで直角に曲げ、長谷の平地を潤した。もし長谷駅のところで曲げていなければ、二本の川の距離は250mほどになる。

以上のような河川工事が過去にあったと仮定すれば、美奈が稲に転化した理由も含め、二本の川の名前が基本的に同じである点、二本の川が異常に接近している点のいずれも説明できることになりますが…、さてはて真相はどんなものでしょうか?江戸から昭和に至るそれぞれの古地図を見れば、答えが出るかもしれません。(現段階では古地図は見ずに推論しています)

ところで、江戸っ子の気風の良さを表すものとして、「粋でいなせな」という言葉があるのはご存知ですね。「いなせ」は鯔背で、日本橋魚河岸の若衆が髪を「鯔背銀杏」に結っていたのに由来するようです。

江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者に河竹黙阿弥という人物がいます。
皆さんも良くご存知の、歌舞伎・白浪五人男「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」の作者で、「稲瀬川勢揃いの場」の口上は特に有名です。

黙阿弥は江戸っ子の「いなせ」と稲瀬川を引っ掛けて、この口上の場面を描いたのではないでしょうか。そこで、まずは日本駄右衛門の口上から…。

問われて名乗るもおこがましいが、産まれは遠州浜松在、十四の年から親に放れ、身の生業も白浪の沖を越えたる夜働き、盗みはすれど非道はせず、人に情を掛川から金谷をかけて宿々で、義賊と噂高札に廻る配附の盥越し、危ねえその身の境界も最早四十に、人間の定めはわずか五十年、六十余州に隠れのねえ賊徒の首領日本駄右衛門。

次に弁天小僧菊之助…。

さてその次は江の島の岩本院の児あがり、ふだん着慣れし振袖から髷も島田に由井ヶ浜、打ち込む浪にしっぽりと女に化けた美人局、油断のならぬ小娘も小袋坂に身の破れ、悪い浮名も竜の口土の牢へも二度三度、だんだん越える鳥居数、八幡様の氏子にて鎌倉無宿と肩書も、島に育ってその名さえ、弁天小僧菊之助。

弁天小僧菊之助「浜松屋の場」での口上。

知らざあ云って聞かせやしょう 浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き、以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの稚児が淵……以下略。

このブログで取り上げた謎解きの場所が、弁天小僧の名台詞・名調子と共に浮かび上がってくるような気がします。

また、万葉集(巻14 3366)では次のように歌われています。

麻可奈思美 佐祢尓和波由久 可麻久良能 美奈能瀬河泊尓 思保美都奈武賀

ま愛しみ さ寝に我は行く 鎌倉の 美奈の瀬川に 潮満つなむか

愛しい人のところへ寝に行くのだけれど、鎌倉の美奈の瀬川に潮が満ちて渡りにくくなってはいないだろうか

普段は水量の少ない川も、満潮ともなると水かさが増して渡りにくくなる。そんな川の様子が、恋路を妨げる障害として描かれています。ところで、美奈は現在でも女性の名前に使われますが、何を意味しているのでしょう?

「みな」は「にな」でニナ科の巻貝類の総称です。きっとこの川で多くの巻貝が採れたのでしょう。あなたが好きな美奈ちゃんの実体は、巻貝ちゃんでした。もっとも、美奈=水無の方が川の様子を表現する意味では近そうです。なお、この歌の一つ前の3365は謎解きにも関連してきますので、後になって取り上げる予定です。

現在では誰も目を留めることのない稲瀬川ですが、その中にもさまざまな謎と物語が秘められていたのです。鎌倉は本当に懐が深いですね。

               ―新田義貞鎌倉攻めの謎を解く その5に続く―


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酔石亭主

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