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新田義貞鎌倉攻めの謎を解く その5


前回は稲瀬川トリビアになってしまいました(笑)トリビアに関しては以下Wikipediaより引用します。

トリヴィア(trivia)は、くだらないこと、瑣末なこと、雑学的な事柄や知識、豆知識を指す。一説に、ラテン語で「三叉路」3(tres)+道(via)を意味する言葉で、古代ローマの都市において三叉路が多かったことから、「どこにでもある場所」「ありふれた場所」を指すようになり、さらに転じて、くだらないこと、瑣末なことを意味するようになったという。


なお昭和2年の地図を見たところ、稲瀬川は水無瀬川として記載され、美奈能瀬川は地図に川も川名も載っていませんでした。地図の制作者も混乱しているのでしょうか?どうもよくわからないというのが本音です。

ということで、今回は本題に戻ります。

さて、大館宗氏が稲瀬川付近にて鎌倉方に討ち取られた、との一報を受けた義貞は2万の軍勢を率いて極楽寺に向かい、聖福寺に陣を置きます。(聖福寺の所在地は別途書きます)この間にも仏法寺の攻防戦があったのですが、以上の状況を踏まえて義貞が稲村ケ崎を越え鎌倉に攻め入る前日の5月20日における両軍の布陣を検討してみたいと思います。

大館宗氏に関して、「太平記」では極楽寺坂、「梅松論」では稲村ケ崎を突破して彼の軍勢が鎌倉に侵入したとあります。両資料は矛盾していますが、極楽寺坂は幕府軍防衛正面に当たり、小部隊では突破不可能なため、海側からこっそりと坂ノ下を抜け鎌倉に入ったという前提で考えるしかありません。つまり、「梅松論」の記述がより事実に近いと考えられます。

そうした前提で、鎌倉攻めに関連する地形を詳細に見ていきましょう。場所の全体的イメージを把握していただくため、グーグル画像、電子国土地図及び各写真を使ってご説明します。


大きな地図で見る
グーグル画像です。

003_convert_20101214141912.jpg
電子国土の地図です。

まず電子国土地図画像と記入した数字に沿って位置関係をご説明します。画面に入り切らなかったのですが、下の端(1)が稲村ケ崎です。稲村ケ崎の東の山(2)は、由井の民が祀る白山神社のある金山です。神社の実際の位置は鳥居マークではなく(2)の辺りです。

注:白山神社は重要度が高いので、サブカテゴリ「鎌倉の謎を解く」の「鎌倉の地名由来を考える」(6月22日)や「鶴岡八幡宮の謎を解く」(6月30日)を事前にお読みください。これらの記事の内容をより詳細に検討しているのが「新田義貞鎌倉攻めの謎を解く」とも言えます。また、「鎌倉の謎を解く」を最初からご覧いただくと全体のイメージが把握しやすくなります。

金山の東は谷戸(3)となって断崖(グーグル画像で白っぽく見える部分が断崖)の端まで谷筋が続いています。谷戸の東側の山が霊山ケ崎(4)に当たると思われます。稲村ケ崎開削の碑では、稲村ケ崎が霊山ケ崎に含まれるような記述になっているので、この場所を霊山ケ崎として間違いないでしょう。(崎とは陸が海に突き出している場所のはずとの疑問も出るでしょうが、それは別途考察します)

下は以前にその2でアップした「断崖」と同じ写真ですが、説明のため再度アップします。

013_convert_20101208090239.jpg
断崖です。

写真「断崖」の左側の山が金山(2)で、中央のへこんだ部分は谷戸から続く谷筋(3)の部分です。つまり谷筋が山の山頂部に到達していない段階で切れ落ちて崖になっている訳です。グーグル画像では谷戸の奥深くまで民家があります。民家から断崖の谷筋までの直線距離はかなり短いとわかります。そして谷筋の東側は霊山ケ崎(4)となります。

霊山ケ崎の東と言うか北東にはまた谷戸地形の谷(5)があります。谷の鎌倉側が霊山(6)となります。

左から順に霊山ケ崎(4)、谷戸の谷筋(5)、霊山(6)を示す写真です。

013_convert_20101214142057.jpg
写真 霊山ケ崎、谷戸の谷筋、霊山。

写真では霊山ケ崎の白い断崖はほぼ見えず、そこから木の茂った断崖が続き、次に谷戸となって下り、もう一度高度を上げて霊山になります。

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谷筋を中心に写したもの。谷筋の左が霊山ケ崎の一部分で右が霊山です。

霊山には谷を挟んで二つの断崖が見られます。

011_convert_20101214142206.jpg
霊山の二つの断崖。

霊山の先にはまた大きく開いた谷筋(7)(霊山が宅地開発で半分以上削られた)があります。そしてその先が、仏法寺と鎌倉の防衛拠点として築かれた五合枡砦のある山になるのです。グーグル画像では成就院の真南から鎌倉パークホテル北側までの範囲にある山です。

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左から霊山(6)と谷筋(7)と仏法寺の山(8)。

一般的に霊山は仏法寺も含んで説明されていますが、仏法寺の山と霊山の間には稲村道(8のすぐ下側辺り)が通じており、ここが鎌倉への入り口でした。従い、霊山と仏法寺のある山とは別のものとして考える必要があります。仏法寺のある山を便宜上仏法寺山と仮称しておきましょう。

以上、稲村ケ崎から仏法寺山へ至るまでを細かく区分けしたことで、場所の全体的イメージも把握いただけたと思います。またこのように位置関係を示すことで、大館宗氏の兵が5月18日に霊山に陣を取ったという記述と、新田軍が5月21日に仏法寺に立て籠もる敵からさんざん射かけられたという記述が整合してきます。

すなわち、5月18日段階で霊山(6)は大館宗氏の手勢が占拠し、仏法寺山(8)は幕府軍が保持して、稲村道を挟んで両軍が対峙していたことになります。大館宗氏の兵は腰越まで引いたとの記述も「太平記」に見られますので、その場合は、一旦奪った霊山も幕府軍に5月20日段階で奪還された可能性が出てきます。

鎌倉に乱入した大館宗氏は100名ほどの小人数だったので、この時点では大館勢の手にあった(と思われる)霊山と霊山ケ崎との間の谷筋(写真霊山ケ崎、谷戸の谷筋、霊山参照)を抜け海側に出て鎌倉に乱入したものと推定されます。(この場合仏法寺山の幕府軍から攻撃を受けないで済む)そして敗れた兵が逆ルートで霊山に戻ったということでしょう。

霊山に仏法寺も含まれているという前提で大館宗氏が霊山に陣を取ったとすると、次のような矛盾が生じます。

5月18日に大館宗氏が仏法寺を含む霊山を占拠しているなら、新田義貞の到着を待たず、陣鐘山に展開していた主力部隊が稲村道を越え海に出て、鎌倉に入れることになってしまいます。(注:陣鐘山は極楽寺川を挟んで仏法寺山と対峙する位置にあり、詳しくは別途書きます)いや、わざわざ稲村道から海に出る必要すらなく、残兵を掃討しつつ極楽寺の坂を下って鎌倉に侵入可能となるでしょう。義貞が龍神に太刀を捧げる必要も全くなくなるのです。

以上ではっきりしました。大館宗氏の手勢が鎌倉に入った18日時点で、主力部隊が鎌倉に侵入できていないのは、霊山と仏法寺山が別であり、仏法寺山は依然として幕府方の支配下にあったからなのです。

「塙政茂軍忠状」の、5月20日に霊山で合戦があったという記録、「三木俊連軍忠状(和田文書)」の、5月21日に霊山寺大門(=仏法寺大門で稲村道に沿った場所にあり)に立て籠もった敵が稲村道の新田軍をさんざんに射た、しかし三木俊連が自ら峯を駆けおりて、大門を打ち破った、という記述も当然のことになります。

5月20日の霊山での合戦は、稲村道を挟み仏法寺山の幕府軍と霊山に陣取る新田軍の兵が戦ったということです。霊山をどちらが確保したのかは五分五分と見られます。5月21日は新田軍の兵が稲村道を攻め上がったが、幕府軍に射られた。しかし、霊山から駆け下りた三木俊連が大門を打ち破ったということです。(この時点で霊山は新田軍の手に落ちたのでしょう)

こうした理解のもとで、まず幕府方の防衛体制を見ていきましょう。(注:新田軍と書いていますが、ここでは新田義貞と共に仮粧坂から駆け付けた軍勢ではなく、当初から陣鐘山に布陣していた軍勢を意味しています)

                 ―新田義貞鎌倉攻めの謎を解く その6に続く―

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