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新田義貞鎌倉攻めの謎を解く その8


今回は新田軍の布陣を見ていきましょう。幕府方は極楽寺から大仏切通し方面を一升枡砦、極楽寺坂から稲村道方面を五合枡砦によって防衛し、仏法寺山から海の波打ち際まで逆茂木を立て、海上には舟を浮かべて矢を射かけるという鉄壁の体制を敷いていました。

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電子国土画像。赤のラインが幕府軍の防衛ラインです。

これに対し新田勢主力は極楽寺川を挟んで西側に位置する陣鐘山(12)に布陣(青いライン)しています。そこへ新田義貞が駆け付け、聖福寺(11)に本陣を置きます。
というのが、いわゆる稲村ケ崎を渡渉する直前の状況であると一般的に言われているのですが……。

この電子国土画像を見て疑問が湧かないでしょうか?そう、なぜ新田義貞はこんな谷戸の奥の変な場所に着陣したのかという疑問です。5月18日には大館宗氏が稲瀬川で討ち死にします。(11人塚の石碑では19日)その知らせが仮粧坂にいた義貞に届くのは、5月19日(最悪20日)となるでしょう。

その日のうちに稲村ケ崎への移動を決断しても、軍勢を整え動けるのは20日になってしまいます。19日のうちに出発し同日夜稲村ケ崎に到着したとしても、聖福寺に陣を構えるのは20日の一日だけ。21日の未明に稲村ケ崎を越えるには、20日から日付が変わった21日の午前2時頃、谷戸のどん詰まりにある聖福寺を出立する必要があるのです。5月15日から16日の分倍河原での激戦以降、ほとんど休みなしの強行軍と言えるでしょう。

酔石亭主の疑問はさらに大きくなっていきます。新田軍の主力は陣鐘山に布陣して、稲村道を攻め登り幕府軍と激闘を繰り返しています。そんな中、なぜ義貞は陣鐘山の裏側にこそこそと着陣するのでしょう。彼は憶病な武将だったのでしょうか?自分を絶対安全な場所に置いて指揮を執るつもりだったのかと、つい疑いたくもなります

加えて、ただでさえ疲労している兵をわざわざ谷戸奥まで行かせ、またすぐに打って出るなど不合理極まりない行動と言わざるを得ません。これら不合理な点、疑問点をどう合理的に解釈するのか、それを検討することで新田義貞の真意と鎌倉攻めの謎が解けるはずです。ということで、具体的な検証に移りましょう。

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聖福寺跡(11)にある解説石板。内容は以下です。

聖福寺ハ建長六年(紀元一九一四年)四月 関東ノ長久並ニ北條時頼ノ息時輔(幼名聖寿丸) 時宗(幼名福寿丸) ノ息災延命ノ爲建立セシモノニシテ 其ノ寺号ハ兩息ノ名字ニ因ミシモノト伝ヘラルルモ 廃寺ノ年代詳ナラズ 此谷ヲ聖福寺谷ト呼ブ  昭和九年三月 鎌倉町青年團建

紀元1914年は皇紀元年から数えての年代で、実際には西暦1254年となります。解説石板によると、この谷を聖福寺谷と呼ぶとあります。つまり聖福寺は音無川の谷戸のどん詰まりにあることになります。

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音無川河口付近。結構自然状態を保持しています。

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音無川に架かる橋。

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音無川の滝。江ノ電の下にあります。


大きな地図で見る
グーグル画像。

この画像で見ると、稲村ケ崎駅の表示からほぼ北にまっすぐ延びる道路の行き止まりが聖福寺跡の解説石板のある位置です。陣鐘山よりもさらに北側の、出陣に適さない場所に陣を置くはずがないと理解できますね。

実際に聖福寺があった場所は解説石板のある場所ではなく、電子国土画像の稲村ケ崎五丁目の「目」の字の辺りであったと思われます。さらに当時の寺院の寺域は想像以上に広く、音無川河口から少し入った辺りからもう寺域に含まれていたのではないか、と推測されます。

以上を総合すると、新田義貞は音無川河口から少し上流に遡った、グーグル画像上では聖路加幼稚園と記載ある辺りに着陣したと推定されます。これで着陣位置の疑問は解けました。

それでもまだ疑問が残ります。陣鐘山の味方は義貞着陣の前後に何度も稲村道を攻め登り、激戦を繰り返しているのに、なぜ義貞は敵・味方が対峙している極楽寺川の谷戸辺りに着陣しなかったのか、という疑問です。これでは、既に述べたように、臆病な司令官がこそこそと敵の来ない裏側で指揮を執るような印象を与えてしまいます。

例えば、首脳陣が軍議を開いて戦略を練るための広い場所が必要だったのでしょうか?

あるいは、陣鐘山が狭すぎて10万もの主力部隊に加えて新田義貞の手勢2万が加わったら、山の上は居場所がない、ということでしょうか?今回一升枡や五合枡、陣鐘山の一部を訪問し印象に残ったのは、いずれの場所も山稜部は非常に狭く、何千人もの兵を配置できるようには思えなかったことです。

人数の問題は横に置いて時系列的に見ると、新田義貞は聖福寺(=音無川下流部)に陣を構える間もなく打って出る必要があり、今更軍議を開き戦略を練る余裕はなかったはずです。

陣鐘山の部隊は陣鐘をひっきりなしに打ち鳴らし、幕府軍と激闘を繰り返していた。なのに義貞は、戦闘から背を向けるような位置に着陣した。その理由を考えたとき、新田義貞の意図するところが浮き彫りにされてきます。義貞が極楽寺川の谷戸に着陣しなかったのは、多分そうすべき必然的理由があったのです。


              ―新田義貞鎌倉攻めの謎を解く その9に続く―


                                                                                                                       
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