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新田義貞鎌倉攻めの謎を解く その9


新田義貞は何の躊躇もなく聖福寺(=音無川下流部)に着陣しました。彼は最初から聖福寺の戦略的重要性(詳しくは追って書きます)に気が付いていたのでしょうか?そんなはずはないと思います。ここでこの地を隅々まで知り尽くした存在が浮かび上がってきます。藤原鎌足が霊夢を見た由井の里の民です……。 

というところで急に話題を変え、陣鐘山の山名由来を検証してみましょう。この山の名前は新田軍が盛んに陣鐘・陣太鼓を打ち鳴らしたことから付けられました。陣鐘を打ち鳴らしながら新田軍(陣鐘山に布陣した部隊)は稲村道を進撃し、21日まで仏法寺山に立て籠る敵と激戦を繰り広げていたのです。(新田軍が、山の名になるほど激しく陣鐘を打ち鳴らしていたことに、ある隠れた意図が感じられます)

しかし仏法寺を稲村道から攻撃するのは至難の業です。敵に対峙できる人数は限られ、道は狭小で身動きもできません。上から散々射かけられたとは当時の状況をよく物語っています。一方、稲村道を挟んで稲村ケ崎側にある霊山は最終的に新田軍が確保したものと思われます。それ以前の5月18日にも、大館宗氏の敗残兵が霊山に陣を構えました。

でもなぜ霊山は比較的簡単に新田軍の手に落ちたのでしょう?それは多分仏法寺山が攻防の要であり、ここさえ押さえておけば新田軍は鎌倉に入れない、そう幕府方は考えて兵力を仏法寺山に集中させたからです。仏法寺山の成就院の真裏近くには五合枡砦があります。それが仏法寺山の真の重要性を物語っているのです。

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五合枡砦と仏法寺、霊山などの位置関係。

(5)が仏法寺で、(6)は五合枡砦。稲村道は(5)のすぐ下に位置します。

なお、五合枡の北西部山稜には既にご紹介した一升枡砦があります。砦は尾根道が集まる結節点のような場所に築かれており、幕府軍は新田軍の動きを見ながら、兵を尾根沿いに動かして対処していたと思われます。

これで一応5月20日における両軍の配置が明らかとなりました。幕府軍は仏法寺山を最後の鎌倉防衛拠点として兵力を集中させています。幕府軍が奪還し20日時点で保持していたと思われる霊山(4)は、翌21日新田軍の手に落ちたものと推定されます。

理由は、「三木俊連軍忠状(和田文書)」によると、5月21日には霊山寺(=仏法寺)に籠もった敵が稲村道の寄せ手をさんざんに射た、しかし三木俊連が自ら峯を駆けおりて、大門を打ち破ったとされているからです。この峯が霊山であったと想定されます。(21日の何時頃大門を打ち破ったのか注意が必要です)

そして新田軍は陣鐘山に相当数の兵を配置して陣鐘・陣太鼓を打ち鳴らし続け、夜は松明も焚いて、数次にわたり稲村道を攻め上がっています。当然幕府軍は前面の敵に注意を集中させているでしょう。しかし、義貞は陣鐘山の裏手、聖福寺(=音無川下流部)にいるのです。

彼は何を考えているのでしょう?稲村道を突破するのは至難の業という報告は、既に陣鐘山の部隊から受け取って知っているはず。稲村道が困難なら、霊山(電子国土画像4)と霊山ケ崎(2)の間(3)を抜け海に出る手もあります。けれどその場合、部隊は多分針磨橋近辺(1)から谷戸に入り海側に抜ける必要があります。

このルートを辿った場合、新田義貞が指揮する軍勢は仏法寺山に陣を構える幕府軍に姿を見せることになるでしょう。狭く複雑な地形の谷戸を夜間に抜けるには、松明の明かりが不可欠だからです。義貞の動きを知った幕府軍は、すぐに霊山を全力で攻撃、奪取し(あるいは霊山に幕府軍がいる)、上から矢を射かけて進軍を妨げるはずです。だとすれば、残る手段は稲村ケ崎渡渉、あるいは……。

次に5月21日の新田軍の動きを見ていきます。彼らの行動には、かなり微妙な問題があるからです。この日、霊山寺(=仏法寺)に籠もった幕府軍が稲村道の寄せ手をさんざんに射たのですが、三木俊連が自ら峯を駆けおりて、大門を打ち破りました。

では、それはどのような時間的タイミングだったのでしょう?峯を駆け下りる軍事行動は夜間では不可能で、多分明るくなった朝7時以降から午後にかけてではないかと思われます。(その場合霊山は、5月21日の明け方まで幕府軍が保持していた可能性が高くなります)

ところが、義貞がいわゆる稲村ケ崎を渡渉したとされるのは、「太平記」に、「その夜の月の入方に、前々さらに干る事もなかりける稲村ガ崎、俄に二十余町干上がって」、とあることから、同日午前4時頃と考えられます。つまり、三木俊連が仏法寺大門を打ち破った時点で、義貞は既に鎌倉に侵入しているのです。

稲村ケ崎渡渉伝説に関して、新田軍は霊山(本ブログでは仏法寺山)を確保したので、稲村道の通行が自由になり、そこから海に出て鎌倉に入ったとする意見も数多くありますが、上記のような時系列を考慮するとそうした考え方は成立しません。(また、既に述べたように仏法寺山を確保したなら、海に出る必要すらなく、従って龍神にも祈らず、残兵を掃討しつつ極楽寺の坂を下ればいいのです)

陣鐘山に布陣した新田軍は仏法寺を攻め続けた。一方新田義貞と彼の手勢は海から、(伝説通りなら稲村ケ崎から)鎌倉に侵入した。言い換えれば両者は、全く異なった動き方をしていたと判断されるのです。なぜ彼らは同一歩調を取らなかったのか?この謎を解くには、義貞が聖福寺に着陣した理由、新田軍が布陣していた山が陣鐘山と呼ばれた理由を同じ文脈の中で解釈するしかありません。

               ―新田義貞鎌倉攻めの謎を解く その10に続く―

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