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新田義貞鎌倉攻めの謎を解く その10


新田義貞が聖福寺に陣を構えた理由がここで明確になります。義貞は着陣後の行動を幕府方に悟られないようにするため、あえて陣鐘山裏側の聖福寺に陣を構えたのです。いや、そうするようアドバイスを受けていたのです。多分、義貞が仮粧坂に到着した時点で由井の民から今後の進め方について進言されていたのでしょう。聖福寺着陣のみならず、陣鐘山で陣鐘を打ち鳴らすのも、彼らの進言を元に実施されていたのです。(由井の民と義貞が連携できた理由は別途書きます)

では、陣鐘を激しく打ち鳴らす理由は何でしょう?それは、幕府方の注意を常に陣鐘山に向けるためでした。言い換えれば、陣鐘山に布陣する部隊は陽動作戦を展開していたのです。陣鐘山の新田軍と新田義貞の手勢は別行動を取っていましたが、実は緊密な連携作戦を実行していたのです。

陣鐘山の部隊は陣鐘や陣太鼓を激しく打ち鳴らし、多数の松明を掲げ、稲村道から仏法寺山への攻撃を繰り返していました。幕府軍の注意は、これにより陣鐘山のみに向けられています。実際19日から21日にかけて仏法寺山で激しい戦闘があったと軍忠状には書かれています。であれば、義貞は稲村道から力で押しまくるに違いない、そう幕府軍は想定して部隊を仏法寺山に集中配置していたはずです。

義貞は幕府軍を自分の思うような方向に仕向けた上で、5月21日の午前2時頃、密かに軍を進めます。彼はどこに向かって軍を進めたのでしょう?当然のことながら、幕府軍からは見えない、気付かれない場所に向かっているはずです。

彼の向かう先は、稲村ケ崎ではありません。稲村道でもありません。また、霊山ケ崎と霊山の間は既に述べた理由から幕府軍の目に留まります。残る唯一のルートは、由井の民が祀る白山神社のある谷戸です。

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新田義貞の想定行軍ルート。

由井の民に先導された軍勢は、一旦稲村ケ崎の海岸付近に出て、金山の麓を巻きながら、谷戸に入ります。谷戸から白山神社まではもちろん由井の民のつけた道が続いています。この間、陣鐘山の部隊は陣鐘を打ち鳴らし、松明を焚き、稲村道を攻め上っています。

幕府軍の注意は完全に陣鐘山に向けられ、義貞の手勢の動きは察知されません。見事な連携プレイですが、この連携を実行に移すには、一帯の地形を熟知した由井の民の協力が不可欠だったのです。その2において、金山、谷戸、霊山ケ崎の写真を掲載し、霊山ケ崎は金山よりも高いと書きました。その場合松明を使って金山を進軍しても、霊山ケ崎の山に隠されて明かりは見えないのです。

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写真を再掲載します。左から金山、谷戸筋、霊山ケ崎です。

酔石亭主は白山神社本殿から左の踏みわけ道に入ってみました。すると尾根道を少し歩いただけで、何の苦労もなくあっけないほど簡単に断崖絶壁の上に出たのです。誰も知らない鎌倉の超絶景スポットとは、白山神社から歩いて少し先の崖の上にあるウッドデッキだったのです。


大きな地図で見る
グーグル画像。ウッドデッキが左端中央部に見えています。

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ウッドデッキから真下を見た写真を再掲載。

注:白山神社からウッドデッキのある一帯は観光地などではなく、鎌倉の始まりと終焉の謎に関連するさまざまな心理的呪縛が掛けられた場所であり、危険を伴うかもしれませんので、興味本位に立ち入らないようお願いします。

ここで、ちょっと待ったと声がかかりそうです。なぜならこの断崖を武装した兵が徒歩で降りることは、現代の特殊部隊や山登りの専門家を除き、絶対に不可能だからです。では、彼らはどのようにして海に降りたのでしょう。この謎を解かない限り、酔石亭主の推論は荒唐無稽な話となってしまいます。

そこで質問です。この崖は鎌倉時代も現在と同じ状態だったのでしょうか?そんなはずはありません。大正12年(1923年)の関東大震災による崩落、昭和10年から実施された大規模な埋め立て工事などにより元の姿は大きく変わっているのです。

霊山
大震災後の写真。

稲村ケ崎から仏法寺山にかけて山が崩落し、海を埋めてしまったので、震災後は稲村ケ崎まで歩いて渡れるようになったそうです。『鎌倉震災誌』(昭和5年 鎌倉町役場)の記載内容によれば以下の通りです。

霊山(りょうぜん)から稲村ガ崎突端に至る山崖が崩れて下の海を埋めたため、ここでは岬の角まで歩けるようになりました。このほか、御霊神社前では、江ノ電トンネルの上部が崩壊して軌道が埋まりましたが被害は比較的軽微でした。


この記述から、関東大震災によって相当量の土砂が海に崩れ落ちたと理解されます。次に酔石亭主は霊山ケ崎という言葉に注目しました。崎とは陸地の海に突き出した部分を意味しています。下の画像のように、金山(2)と霊山ケ崎(4)は極楽寺川のすぐ近くから立ち上がり、高度を上げ、134 号線の手前で頂上に達する前に断崖として断ち切られています。

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電子国土画像。

もし断ち切られていなかったら、およそ30m先で山頂部になるでしょう。関東大震災の前の時点で山頂まで存在していたか不明ですが、少なくとも山頂付近まで山は存在していたのです。それでもなお、断崖状態に変わりはなく山を下るのは極めて困難です。さらに、霊山ケ崎は関東大震災以前でも崎として海に突き出してはいなかったように思えます。 

             -新田義貞鎌倉攻めの謎を解く その11に続く―




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