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新田義貞鎌倉攻めの謎を解く その12


前回までの検討で新田義貞の動きがはっきり見えてきました。義貞の軍勢は聖福寺を進発、音無川に沿って海岸線に出て、金山を巻くようにして由井の民の谷戸に入り、白山神社の脇から尾根道を進み金山の山頂部に到達。山から下って200m以上先にある霊山ケ崎の突端部に進出したのです。

そして霊山ケ崎の突端で、新田義貞は龍神に祈り黄金の太刀を海に投げ入れた…、と現段階ではしておきましょう。この再構成した攻撃モデルの場合、錦絵にあるように霊山ケ崎から七里ガ浜の丘陵が見えるのです。太刀を投じたのは稲村ケ崎ではない、しかし稲村ケ崎を越えた先では丘陵は見えないという矛盾がこれで解消され、錦絵と整合させることができました。

稲村ケ崎
錦絵を再掲載。

なお、錦絵はデフォルメされており、霊山ケ崎が山頂から200m以上も現在より前に伸びていたなどあり得ないとの意見もあるでしょう。確かに、遠景、中景、近景と持ってきて義貞を中心に描く方が画面も引き締まるので、絵師が技巧上見えないはずの七里ガ浜丘陵を入れてしまった可能性は否定できません。

仮にそうだとして、霊山ケ崎が現在より70m程度海に向けて伸びているだけであったにしても、絵と実景との全体的位置関係、これまで述べてきた戦略上の理由により、新田義貞は霊山ケ崎で海に出て、鎌倉に攻め入ったという考え方に変更を加える必要はなさそうです。

さらに言えば、この錦絵は江戸期に描かれたもので、資料としての信憑性があるのかという問題も出てきます。資料としての信頼性は必ずしも高いとは言えませんが、この錦絵を謎解きの最初に持ってきたのは、そうすることで論証をスムーズに進めることができると思ったからです。ここまで検討を進めれば、現時点では錦絵がなくても、義貞が海に出た地点は霊山ケ崎であるとご理解いただけるはずです。

では、潮は本当に引いたのでしょうか?その判断は現時点では差し控えることにします。なぜなら、今日の段階では伝説部分は一旦横に置き、事実関係のみを追っていきたいからです。さらに留意すべきは、潮は引いたのかという問題は、龍神に祈り太刀を海に投げ入れたことと連動している点です。つまりこの答えを出すには、龍神に祈り太刀を海に投げ入れたのが事実かどうかをまず判定する必要があるのです。

ということで事実関係に戻りましょう。潮が引いたかどうかは一時棚上げとして、少なくとも、稲村道から鎌倉に入る道は整備されていたはずです。(でなければ、大館宗氏は稲村道経由で鎌倉に侵入できません)潮が引かない前提で考えると、霊山ケ崎からの新田軍の行軍は、海水に浸かりながら海岸線を進み、仏法寺山から下った稲村道に入って勇躍鎌倉を目指したことになるでしょう。

仮に稲村ケ崎からであれば、海に浸かっている距離が相当長くなり兵士の疲労度・危険度が一気に増大してしまいます。一方、舟から矢を射かけるはずの敵は、夜間であれば危険すぎて陸に上がっているでしょう。兵が疲労せず、かつ陸上の敵から攻められないベストポイントは霊山ケ崎しかなく、海上の敵から攻められない通過時間は夜間しかないのです。着陣以降の新田軍の行動がいかに綿密に練られたものだったか理解できますね。

以上、錦絵と実景との関係、地理的条件、戦における戦略、由井の民の存在のいずれの観点から見ても、新田義貞が海側から鎌倉に侵入するに当たり、きちんと整合する場所は霊山ケ崎のみになるのです。

長い論考になりましたが、ようやく新田義貞の鎌倉侵入ルートを確定させることができました。一方、仏法寺山の攻防戦は義貞が鎌倉に乱入した後も続いていたと見られます。しかし一旦義貞の部隊が鎌倉に乱入すれば、幕府の大仏切通し・極楽寺・仏法寺山(=稲村道)防衛軍は背後を突かれますので、21日の午後から夕刻には脆くも崩壊したのだろうと推測されます。そして翌5月22日、北条高時の東勝寺における自害をもって、鎌倉幕府は終焉を迎えたのです。

             ―新田義貞鎌倉攻めの謎を解く その13に続く―
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