鎌倉大仏の謎 その9


鎌倉大仏は現存している。ならばそれは誰かの意志によって造立されたものです。前回まで東大寺大仏と鎌倉大仏を繋ぐ回路を示し、忍性が怪しいのではと当たりを付けました。しかし、単に忍性の動きを見ていくだけでは謎は解けそうありません。このままでは答えが得られないと思い、迷いが生じて、その9を書くのも一旦中断するしかありませんでした。

ではどうすべきか…。迷ったら基本に帰るしかありません。ということで、もう一度推理の基本に立ち返りたいと思います。

鎌倉大仏は現存している。だから間違いなく誰かが何らかの意志・目的を持って造立させた。それが可能な人物あるいは組織の条件とは何か。ここから改めてスタートしたいのです。

第一に、鎌倉大仏を造立したのは、東大寺大仏に関与した人物と精神的あるいは血脈的に何らかの繋がりがある人物または組織であること。

第二に、大仏造立は個人の力だけでは不可能なので、民間側と幕府側の両方に関与した人物がいるという前提で考えること。

第三に、官民の両者とも造立に関与できるだけの資金力を備えていること。

第四に、これが難しいのですが、上記の条件を満たしつつも、鎌倉幕府をして公的歴史書である「吾妻鏡」に記載をためらわせた事情を持つ人物あるいは組織であること、です。


以上の条件に当てはまる人物とは誰でしょう、あるいはどんな組織なのでしょう?

とっかかりとして、鎌倉幕府を創設した源頼朝を考えてみます。頼朝は佐助ガ谷の老翁すなわち秦氏系の人物との関係が深かった。しかも彼は東大寺大仏復興の供養に数万の兵を引き連れ参列し、莫大な奉加を提供しています。彼は武家の棟梁であり、幕府の初代征夷代将軍ですから、一定の資金力・資金調達力もあるでしょう。

しかし頼朝は、大仏建立が始まる以前にこの世を去っています。大仏建立の意志を頼朝が持っていたのは確かだとしても、自身は直接関与できないのです。だとすれば、頼朝は自分の意志を誰かに伝えたのではないか。一般的には稲田野局となりますが、上記の条件をほとんど満たせないことから、彼女はペケ印とするしかありません。ここでは、頼朝は誰かに自分の意志を伝えた可能性がある、との推定だけに止めておきましょう。

続いて俎上に乗せるのは忍性です。前回まで書いた部分との重複部分も出るでしょうが、整理する意味でもう一度書いていきますのでご了承ください。

まず東大寺大仏関連で登場した人物を以下記載します。
聖武天皇と妻の光明皇后、行基、秦氏、良弁、染屋太郎大夫時忠。

忍性はらい病患者、非人、困窮民救済に力を尽くしました。彼の社会的活動・慈善事業については以下Wikipediaより引用します。

忍性は早くから文殊菩薩信仰に目覚め、師叡尊からは真言密教・戒律受持・聖徳太子信仰を受け継いでいる。聖徳太子が四天王寺を創建するにあたって「四箇院の制」をとったことに深く感銘しその復興を図っている。四箇院とは、仏法修行の道場である敬田院、 病者に薬を施す施薬院、病者を収容し病気を治療する療病院、身寄りのない者や年老いた者を収容する悲田院のことで、極楽寺伽藍図には療病院・悲田院・福田院・癩宿が設けられており、四天王寺では悲田院・敬田院が再興されている。また、鎌倉初期以来、四天王寺の西門付近は「極楽土東門」すなわち極楽への東側の入り口と認識されており病者・貧者・乞食・非人などが救済を求めて集まる所となっていた。忍性はここに石の鳥居を築造しこれらの人々を真言の利益にあずからせようとしたのであろう。


こうした事業はキリスト教的な匂いがしますが、日本においては聖徳太子→光明皇后→忍性の流れで展開されてきました。悲田院に関しては以下Wikipediaより引用します。

聖徳太子が隋にならい、大阪の四天王寺に四箇院の一つとして建てられたのが日本での最初とする伝承があり、敬老の日の由来の俗説の一つである(四箇院とは悲田院に敬田院・施薬院・療病院を合せたものである)。…中略…723年、皇太子妃時代の光明皇后が設置したものが、日本では記録上で最古のものである。…中略…鎌倉時代には忍性が各地に開設し、以降、中世非人の拠点の一つとなった。


四天王寺の伎楽は秦氏が担い、秦氏系の匂いが濃厚で、忍性もこの寺の別当に就任しています。

忍性が出家した額安寺は道慈が創建したもので、道慈の虚空蔵求聞持法は秦氏に受け継がれ空海に流れ込んでいます。また額安寺は秦氏系の寺である大安寺へと接続していきます。忍性は聖徳太子信仰を受け継いでいますが、この信仰を広めたのは秦氏を信奉する職能民であり、背後には秦氏が存在しています。

忍性はまた行基に深く帰依しています。行基は秦氏と関係が深く、忍性は行基ゆかりの竹林寺で修行しています。忍性の墓は極楽寺、出身地である大和郡山の額安寺、行基の墓のある竹林寺の三カ所にあり、いかに忍性が行基に傾倒していたか良く理解できます。彼が土木建築の社会事業に進出したのは行基の影響が大きいと推測されます。

その視点で見ると高徳院の前身である浄泉寺の開山が行基というのも、一定の意味を持ってきます。そもそも行基は東国には行っていないと言うのが通説です。ところが鎌倉を含む東国のあちこちの寺に行基開山・開基伝説があるのです。これらの伝説の流布には忍性の存在が係わっているのではないでしょうか?

以上から忍性は、東大寺大仏の主要人物である聖武天皇の妻光明皇后、行基、秦氏などと精神的な繋がりを持っていることになります。500年の地下水脈が滔々と流れ込んでいる忍性は、鎌倉大仏造立に関する第一番目の条件を満たす人物なのです。

              ―鎌倉大仏の謎 その10に続く―


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