FC2ブログ

新田義貞鎌倉攻めの周辺 その1


新田義貞の鎌倉攻めは一応の結論を出してはいるのですが、実はすっ飛ばした部分、議論が生煮え状態の部分もあります。そこで、今回から鎌倉攻めの周辺についてやや詳しく見ていきたと思います。それにより結論部分が変わってしまうことは、多分ないと思うのですが…、現時点では何とも言えません。

まず、極楽寺に関して検討していきましょう。幕府軍と新田軍の激戦があり鎌倉攻めの鍵ともなった仏法寺は極楽寺に含まれているからです。

006_convert_20110103192747.jpg
昨年初夏に撮影の極楽寺山門。内部は撮影不可なので門だけです。

極楽寺と言えば忍性の寺という印象になります。鎌倉攻めとの関連で不思議に思えるのは、忍性が嘉暦3年(1328年)後醍醐天皇より菩薩の尊号を勅許されていることです。(忍性は1303年に死去)1328年は新田義貞鎌倉攻めの5年前で、当時天皇は密かに倒幕の志を温めていました。

忍性がいかに非人救済などの慈善事業で評価を受けていたとは言え、極楽寺は鎌倉の西の守りに位置し、討幕軍を進めるに当たっての障害物・要塞として存在しています。しかも律宗の門人たちは土木工事や石切りに長けており、鎌倉を守る防御施設の整備に忍性が関与していた可能性すらうかがえるのです。

そんな寺を統括していた人物に、倒幕の志を持つ天皇が菩薩号などを贈るでしょうか?この疑問に答えるのはかなり難しそうです。そこでやっかいな謎は横に置き、引き続き極楽寺に関してと、忍性の人物像などを見ていくこととします。極楽寺については以下Wikipediaより引用します。

極楽寺(ごくらくじ)は、神奈川県鎌倉市極楽寺にある真言律宗の寺院である。山号は霊鷲山(りょうじゅさん)。詳名を「霊鷲山感応院極楽律寺」と称する。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は北条重時、開山は忍性である。
鎌倉市の西部、鎌倉七口の1つである極楽寺坂切通しの近くにある、鎌倉では珍しい真言律宗の寺院である。僧忍性が実質的な開祖である。中世には子院49箇院を有する大寺院であった。
極楽寺の実質的な開祖である忍性が当寺に入寺したのは文永4年(1267年)のこととされている(『忍性菩薩行状略頌』)。極楽寺の古絵図を見ると、往時の境内には施薬院、療病院、薬湯寮などの施設があり、医療・福祉施設としての役割も果たしていたことがわかる。


上記から、極楽寺は現代の寺とは様相が異なっているとわかります。まずその規模の大きさです。寺は七堂伽藍を備え、子院(支院)が49、堂塔270以上を擁する超巨大施設でした。しかも単なる宗教施設にとどまらず、境内に各種医療施設を置き、数万人ものらい病患者や非人、困窮民の救済に当たっているのです。いわゆる社会福祉事業ですね。これにより忍性は、下層の民や各種職人の統括を幕府から委任されました。

ところが一方で、彼は250カ所以上もの道路改修と架橋工事を行い、30数カ所に井戸を掘り、80を越える寺院を造営し、鎌倉の要害をも築いています。極楽寺坂の切通しを開いたのも、忍性とされているのです。寺は各種工事を担当する大工や石工、設計者、工程管理者、現場労働者など多種多様な人材を抱えていたでしょう。これは正しく現代のゼネコン業務です。

しかも忍性は、鎌倉の港湾施設である和賀江嶋の管理権、前浜の殺生禁断権(漁民に漁業を許す権利つまり漁業権)、鎌倉七道における通行料徴収権まで獲得していました。忍性は港湾を管理することで関銭を取るなど、手にした利権から莫大な収入を得ていたことになります。ここにおける忍性は、利権を漁りまくるヤクザの親分のような存在です。

鎌倉の利権を一手に握る忍性にどうにも我慢ならなかったのが、かの有名な日蓮宗開祖日蓮でした。日蓮は、雨乞いで雨を降らせることができなかった忍性を見て、これぞ追い落としの絶好のチャンスとばかりに手厳しく糾弾します。糾弾された忍性も黙ってはいません。日蓮を幕府に告訴し、結果日蓮は佐渡に流されるという法難を受けたのです。

この話に尾ひれが付いて、龍ノ口法難という有名な伝説が出来上がりました。文永8年(1271年)、日蓮は龍ノ口で処刑されそうになりますが、発光現象や刀が折れるなどの怪異が起きて処刑は中止となります。

刑場
龍ノ口刑場跡。

刑場側からは処刑不可能を伝える使者が、幕府側からは処刑中止を指示する使者が出て、両方の使者がとある川で行き合いました。その場所が行合川という小河川だったのです。


大きな地図で見る
グーグル画像。行合橋とあるのが行合川です。

このように日蓮宗側は、龍ノ口刑場で処刑されかけた日蓮が助かる経緯を伝説的に伝えていますが、両者の争いの真相は、宗教家らしからぬ鎌倉の利権を巡るものだったと言えましょう。

話が横にそれたので元に戻します。忍性のこうした活動を考慮に入れると、極楽寺における仏法寺の役割・立ち位置がはっきりと浮き彫りにされてきます。極楽寺が極楽寺谷の谷戸にあるなら、一般的には仏法寺は極楽寺の方角を向いて建てられるべきはずのものです。ところが仏法寺の敷地は、山稜部から海側に下った場所を切り開き造成されていました。

そこから極楽寺はもちろん見えません。東西30m、南北70mの、山を切り崩して造成された平地は海に向かって開けています。すなわち鎌倉攻めの激戦地仏法寺は、相模湾を航行する商船、漁船、和賀江嶋の状況を監視できるように建てられていたのです。

042_convert_20110103192931.jpg
仏法寺跡から相模湾の眺望。

仏法寺の性格はその名前にふさわしからぬ、船舶の動向を見張る監視所であり砦でもあったのです。もちろんただ見張るだけでは役に立ちません。問題があれば即座に対応できるよう、寺から直接海岸に下りて前浜(由比ヶ浜)へ出るルートも当然開設されていたでしょう。

               ―新田義貞鎌倉攻めの周辺 その2に続く―

スポンサーサイト



プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
12 | 2011/01 | 02
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる