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新田義貞鎌倉攻めの周辺 その2


「新田義貞鎌倉攻めの謎を解く」において、稲村道は仏法寺山門前から海岸に下るルートという前提で論考を進めていました。実はその場合、様々な矛盾が出てきてしまうのです。このルートが建設されたのは、仏法寺の船舶監視機能を考慮すると、忍性の極楽寺入りの後のはずで、1267年以降のことになります。

ところが「吾妻鏡」によれば、建長4年(1252年)に宗尊(むなかた)親王が稲村崎より鎌倉に入っています。道は当然稲村道経由と思われますが、この時点では仏法寺も存在せず、従って門前から海に下る道もないはずです。

鎌倉について考えていくと必ずこうした矛盾に突き当たってしまい、頭を抱える状態に…。本当に困ったことですが、この問題も一旦横において、忍性について引き続き見ていきましょう。以下Wikipediaより引用します。

忍性(にんしょう、建保5年7月16日(1217年8月19日) - 乾元2年7月12日(1303年8月25日))は、鎌倉時代の律宗(真言律宗)の僧である。房名(通称)は良観。父は伴貞行(後に叡尊教団の斎戒衆となり慈生敬法房と名乗った?)。大和国城下郡屏風里(現奈良県磯城郡三宅町)に生まれる。
貞永元年(1232年)死の床にあった母の懇願により、大和国額安寺に入って出家し官僧となる(官度)。


これだけでは何もわかりません。ただ忍性の僧侶としての人生は、大和額安寺から始まったことだけは理解できます。最初の経験はその後の人生に決定的な影響を及ぼすはずなので、額安寺とはどんな寺なのかチェックしてみましょう。

額安寺の前身は額田寺で、遣唐使にて入唐し養老2年(718年)に帰国した道慈が虚空蔵菩薩を本尊として、額田寺を額安寺に改めたとされています。道慈は日本に虚空蔵求聞持法を伝来させた人物であり、虚空蔵信仰は既に検証してきたように秦氏の信仰でした。忍性と秦氏の間に、直接的ではないものの、繋がる回路が見えてきそうです。道慈はまた平城京に大安寺を造営させています。

虚空蔵求聞持法は道慈から善議、勤操、空海、道昌へと伝えられるのですが、勤操と道昌はともに秦氏系の人物であり、善議と勤操は大安寺の高僧でもありました。大安寺は秦氏系の寺として有名で、行教が八幡大神から「吾、都の近くにある石清水男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との御託宣を受け、宇佐八幡神の分霊を石清水に遷座させたのが石清水八幡宮の起源とされており、行教も大安寺の秦氏です。

もうご存知のように、鶴岡八幡宮は康平6年(1063年)源頼義が奥州を平定の後、石清水八幡宮を由比ヶ浜の元八幡所在地に勧請したのが始まりです。

つまり、忍性が出家した額安寺は秦氏における虚空蔵信仰のベースを作り、秦氏系の寺を造営した道慈の寺であったということになります。以上から、忍性は秦氏の存在を認識していたのではないでしょうか?その傍証になるのが、忍性の中には聖徳太子信仰が流れ込んでいるという点です。彼は四天王寺の別当にも任命されていました。

四天王寺は聖徳太子が医療・福祉施設として建立した寺院で、忍性はそれら施設の復興に力を入れています。らい病患者の救済施設を建設するという発想の中には、キリスト教的な匂いもするのですがいかがなものでしょう?

また四天王寺における伎楽奏者の多くは秦氏ですが、聖徳太子の背後には秦氏がいるので、それも当然のことです。さらに忍性は秦氏と深い関係にある行基ゆかりの竹林寺で修行しています。忍性と秦氏を結ぶ地下水脈が徐々に視野に入ってきました。

忍性に続いて、金山(現在の稲村ケ崎一丁目)に鎮座する白山神社について検討していきましょう。金山の白山神社は由井の民が祀る神社ですが、白山系神社には秦氏の深い関与が見られます。(注:白山神社に関しては、「鎌倉の地名由来を考える 続編」(昨年7月9日)も参照してください)

加賀の白山を開き白山信仰の開祖と目されるのは泰澄です。彼は越前国足羽郡の出身で、同地には秦氏が多く、父の名は秦角於。よって泰澄は秦氏の流れに連なる人物と思われます。白山のルーツを更に辿ると朝鮮半島に行き着きます。ただこの辺を書くと長くなるので、今回は割愛します。白山信仰は秦王国の豊前にもあり、結局朝鮮半島から対馬を経て九州北部に入った白山信仰と、北陸に入った白山信仰の二つの流れがあり、そのいずれにも秦氏の関与があると考えられるのです。

また滋賀県大津市にある園城寺の鎮守神は新羅明神と白山明神ですが、白山明神に関して寺の記録では、「社司秦川勝の胤である有臣国と云う者が、当社の神職に任じられそれ以来秦氏が連綿と相継」と書かれています。またしても秦川勝が出てきました。秦川勝は秦氏の代表的人物で伝説化しているにせよ、白山信仰に秦氏が関与しているのは間違いなさそうです。このため秦氏の居住地である秦野にも白山神社が鎮座しています。

金山の白山神社に関しては由緒が伝わっていないようなので、不明な点も多いのですが、上記から由井の民の背後に秦氏の存在が垣間見えると推測されるのです。

そして極楽寺と白山神社は同じ極楽寺谷戸の域内に存在しています。それは単なる偶然だったのでしょうか?忍性と秦氏、白山神社と秦氏。後醍醐天皇と秦氏。いずれも秦氏繋がりであることが、新田義貞の鎌倉攻めに影響を及ぼしていた可能性も見えてきます。

忍性に菩薩号を贈った後醍醐天皇に対し、極楽寺が親近感を抱いていたとしたら、最も攻め込みにくいはずのこのエリアから新田義貞が鎌倉侵入に成功したのには、ある種の必然性があったとも言えそうです。

           ―新田義貞鎌倉攻めの周辺 その3に続く―

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