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鎌倉大仏の謎 その1


鎌倉大仏は正式にはいささか長い名前で、大異山高徳院清浄泉寺と称します。昨年オバマ大統領も訪問した鎌倉観光の定番とも言える場所で、知らない人はおりません。ではなぜそれほど有名な鎌倉大仏をここで取り上げるのか、との声も上がりそうです。その疑問には次のような質問をお返ししょう。鎌倉大仏はいつ、誰の手によって造立されたのか、という質問です。この質問には簡単に答えられないはずです。

つまり私たちは、鎌倉大仏についてその存在を知ってはいても、お寺の開山、開基、大仏の造立年など基本的なことはほとんど知らないのです。

一方鎌倉大仏よりずっと古いはずの、東大寺大仏は東大寺のホームページによれば、「東大寺は天平15年(743)に聖武天皇が盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ) 造立の勅願を発布し、国全体をまもる寺として知識(自らの意志で協力する人々)の総力をあげて造営された」とあり、これは多くの方が既にご存知だと思います。

また、東大寺大仏の造立には秦氏が深く関与しています。大仏の造立には大量の水銀が必要とされました。東大寺の初代別当良弁は若狭の秦氏ともされ、水銀は良弁、実忠のラインで、大仏建立に使用する目的で若狭から運ばれてきたものと推測されます。さらに鋳造技術者の名前を見ると、秦氏の名が多く見られます。秦氏と関係の深い行基も、大仏造立に携わった主要メンバーの一人です。行基に関しては以下Wikipediaより引用します。

行基(ぎょうき/ぎょうぎ、天智天皇7年(668年) - 天平21年2月2日(749年2月23日))は日本の奈良時代の僧である。677年4月に生まれたという説もある。…中略…朝廷からは度々弾圧されたが、民衆の圧倒的な支持を背景に後に大僧正として聖武天皇により奈良の大仏建立のディレクターとして招聘された。また、この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。


ちなみに他の三聖は、発願聖武天皇、開山良弁僧正、開眼導師菩提僊那となります。

東大寺大仏は十分すぎるほどの情報がある。なのに、鎌倉大仏に関しては確かな情報がほとんどない。それがこの問題を取り上げる理由です。

なお東大寺の大仏は盧舎那大仏(密教の大日如来と同じ)であり、鎌倉は阿弥陀如来像であるという違いもありますが、これはご存知の方も増えていると思われ、謎の範疇には入りません。

鎌倉大仏の基本的事項を知るため、まず名著刊行会の「吾妻鏡」、「新編相模国風土記稿」(以下風土記とします)などで関連記事を拾ってみました。(素人の訳ですから誤訳があっても、ご寛容ください)

歴仁元年(1238年)3月23日:相模国深澤里大佛堂事始也、僧浄光令勧進尊卑緇素、企此営作云々。(注:緇(し)は黒、素(そ)は白を意味し、僧と俗人ということです。実際には様々な人たちと言う意味でしょう)

相模国深沢の里で大仏堂建立を始める儀式があった。僧浄光が貴賎問わず浄財の寄付を求め造営を企画した。

最初の大仏は木造大仏だったため、まず建物から着工し、大仏堂事始めと記載されたと思われます。ところが次の記事では…。

歴仁元年(1238年)5月18日:相模国深澤里大佛御頭奉舉之、周八丈也、

相模国深沢の里で大仏の御頭をあげ奉じる、周八丈なり

大仏堂着工から二ヶ月もしないうちに、もう頭を取りつけてしまいました。ということは、胴体部分は既に完成していることになります。周八丈とは頭部外周ではなく、立ち姿において八丈という意味で、実際には座像なので四丈程度です。(ひょっとしたらですが、立ち姿八丈の仏像だったのかも…)

仁治2年(1241年)3月27日:又深澤大佛殿同有上棟之儀云々

この日、深澤大仏殿の上棟式があった。

大仏の御頭をあげる(=完成)と大仏殿上棟との間の時間的ずれが気になります。木造大仏を雨ざらしにすれば痛みが早くなるはずで、どうにも腑に落ちません。また、大仏堂が大仏殿と表現も変化していることも気になります。堂と殿では、建物の大きさが随分違って感じられるからです。筋道を通すには、大仏堂を雨除けの仮設構造物と考えるしかありません。そしておよそ3年後に、大仏殿の上棟式があったということでしょう。

仁治2年(1241年)4月29日:囚人逐電事、預人罪科不軽、召過怠料、可被寄進大佛殿造営之由

囚人が逃亡したのは監視人(=御家人)の罪軽からず、過失に対する罰金を召し大仏殿造営に寄進させるべきである。

幕府が大仏殿造営に多少なりとも協力していると推測できる記事です。

寛元元年(1243年)6月16日:深澤村建立一宇精舎、安八丈余阿弥陀像、今日展供養、導師卿僧正良信、讃衆十人、勧進聖人浄光房、此六年之間勧進、都鄙尊卑莫不奉加

深澤村に一宇精舎を建立、八丈余の阿弥陀像を安置して、今日供養が催され、導師が卿僧正良信、開眼供養の讃を唱える讃衆は十人、浄光はこの六年間都から田舎まで寄付を募り、尊きも卑しきも奉加しない者はいなかった。

寛元元年に建立ですから、丸六年かけて大仏と大仏殿が建立されたことになります。不可解に思えるのは、東大寺の盛大を極めた開眼供養と比較し、鎌倉大仏は讃衆十人と考えられないほどみすぼらしいものになっていることです。幕府の主要メンバーは出席しなかったのでしょうか?以上の記事は全て「吾妻鏡」より引用しています。

ところで、この鎌倉大仏は木造大仏でした。その根拠は風土記の引用文「浄泉寺建立序之記」と題する写しに出てきます。それには、頼朝が奈良の大仏を見て東国にも大仏を造立したいと発願。その遺志を継いで稲多野局という侍女が大願を発し、暦仁元年3月木像の大仏と大殿の建築が始まったと書かれています。「吾妻鏡」では曖昧ですが、風土記の引用文では木造大仏と大殿が同時に造立、着工したことになります。(さっき書いた雨除けの仮設建物の話がおかしくなりますが??)

また風土記は「東関紀行」(仁治3年(1242年)成立と考えられる紀行文)より以下引用しています。

由比浦トイフ所二。阿弥陀佛ノ大佛ヲ。奉造由語人アリ。誘テ参レハ。尊ク有難シ。事ノ起リ尋ヌルニ。本ハ遠江国ノ人。定光上人ト云フ者アリ。過ニシ延応ノ頃ヨリ関東ノ貴賎ヲ勧テ。佛像ヲ造リ。堂宇ヲ建タリ。其功既二三カ二二及フ。

由比ヶ浦と言うところで阿弥陀仏の大仏を造っているという人がいて、誘われて行ってみれば、有難く尊いことだ。事の起こりを聞いて見ると、もと遠江国の定光上人(=浄光上人)が関東の貴賎を勧進して仏像を造り、堂舎を建てたのだという。もう既に三分の二が出来上がっている。

この浄光という人物は他に何も事績がなく、なぜそんな人物が大仏造立の勧進をしたのか何の説明もなく不可解です。なお「東関紀行」にもこの大仏が木像であると記されています。

また、幕府法の『新編追加』の中に仁治3年(1242年)3月3日に「可被止鎌倉中僧徒従類太刀腰刀等事」とあり、没収した刀剣を大仏に献上すること、となっています。一瞬鉄も溶かして使うのかと思いましたが、鎌倉大仏の鉄分量は0.02%なのでそれはなさそうです。まあ幕府によるちょっとした財政支援と言うことでしょう。

経緯が今一つ飲み込めないまま、木造大仏と大仏殿が1238年に着工、1243年には完成して、非常にささやかな開眼供養が執り行われたまでを見てきました。次回は金銅製大仏の造立を検討していきます。

(注:記事タイトルを「鎌倉大仏の謎を解く」としていないのは、多分謎は解けないだろうとの想定からです)

                ―鎌倉大仏の謎 その2に続く―
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