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鎌倉大仏の謎 その2

鎌倉大仏の謎
01 /19 2011

前回で木造大仏の造立について見てきました。幾つか不可解な面はあるものの、時系列はきちんとしており、ある程度の経緯は見て取れます。そして9年後、「吾妻鏡」に極めて唐突かつ素っ気ない雰囲気で金銅大仏造立の記事が現れます。

建長4年(1252年)8月17日:今日、當彼岸第七日、深澤里奉鋳始金銅八丈釈迦如来像

彼岸の第7日に当たる今日、深沢の里で金銅製八丈の釈迦如来像の鋳造が始まった。

金銅製大仏の鋳造が始まった経緯、木像の阿弥陀如来像が金銅釈迦如来像に変わった理由について何の説明もありません。不親切というか、意図的に隠している雰囲気さえ感じられます。

一般的には、宝治元年(1247年)年9月1日の台風で木造大仏もろとも大仏殿が倒壊したからだとされています。この年は年初から不穏な空気が漂っていたようで、関連記事を拾ってみました。

1月30日:越後入道勝圓佐介亭第後山光物飛行、仍致祈請云々 

またしても光物出現です。

2月11日:由比濱潮変色、赤而如血、諸人群集見之云々 

由比ヶ浜の海水が変色し、赤潮が血の色のようだとあります。

2月12日:戌刻大流星自艮方行坤、有音、長五丈、大如圓座、無比類云々、

座布団のように大きい大流星が飛んだとあります。流星と光物は分けて表現されており、また人魂なら後ろの山を飛ぶことはなく、光物はやはりUFOかもしれません。宇宙人たちは鎌倉時代の日本をしばしば訪れていたのでしょう。

2月17日:黄蝶群飛、凡充満鎌倉中、是兵革兆也、

黄色い蝶が飛んで鎌倉中に充満した。これは戦争の予兆である。

9月1日:大風、佛閣人家多以顛倒破損云々

大仏殿が倒壊したのはこの9月1日の記事によっています。しかし仏閣の倒壊があったとあるだけで、大仏殿が倒壊したことは確認できません。10月、11月には大地震と記述があります。鎌倉時代にはよほど地震が多かったのか、巻によっては一カ月に4、5回も地震や大地震があったと記されています。

では、釈迦如来像はどう考えればいいのでしょう? こんな場合は他の史料に当たるしかありませんので、風土記を参照します。すると…、もっと混乱してしまいました。なぜなら、風土記は現在(江戸時代に書かれたとき)の大仏は盧遮那佛としているからです。その記事を見ていきましょう。

大佛。獅子吼山。寺ハ大異山ト号ス。清浄泉寺ト号ス。金銅ノ盧遮那佛ナリ。

つまり風土記によれば、木造の阿弥陀如来像、金銅の釈迦如来像、金銅の盧遮那仏像という三種類の大仏が存在したことになってしまいます。風土記もこの間の事情の筋道が付けられないのか、以下のように記しています。

按スルニ。是宗尊親王ノ時二シテ。今ノ銅佛是ナリト云フ成云此銅像モ。何ノ頃ニヤ亡失シ。今ノ大佛ハ。盧遮那佛ナリ。此佛ヲ改メ造リシ。来山ハ詳ナラスト云フ。

考えを巡らすに、これは宗尊親王の時代のことで、今(江戸時代)の銅仏はこれだというこの銅像も、いつの頃だか失われ、今の大仏は盧遮那仏である。この仏を改めて造立した来山は定かではないと言う。

非常に苦しい説明をしているのが見て取れます。風土記の記述だと、木造阿弥陀如来像が金銅釈迦如来像になり、それもいつか失われ今の大仏は盧遮那仏であるとしているようです。

一般的には最初に造立されたのが木像の阿弥陀仏で、金銅の釈迦如来像は金銅の阿弥陀仏の誤りであり、この阿弥陀仏(阿弥陀如来像)が現在の鎌倉大仏であるとされています。しかしそれもあくまで説にすぎず、決定的な根拠があっての話ではありません。

その後の経緯を風土記で見ていくと、

建武2年(1335年)8月、大風で大仏殿の棟梁が微塵に折れる。(太平記よりの引用)

応安2年(1369年)9月大風のために堂宇転倒する。(鎌倉九代後記よりの引用)

明応4年(1495年)8月由比ヶ浜の海水が檄奔して仏殿破壊に及んだ。(鎌倉大日記よりの引用)

それ以降はただ礎石のみ存在して仏像は露座せり。(梅花無盡蔵よりの引用)

ところが実際には、明応7年(1498年)8月の大津波で仏殿が崩壊したと言うのが定説となっています。

風土記は「梅花無盡蔵」に露座の様を詠じた詩があるとして、以下引用しています。

見長谷觀音之古道場。相去數百步。而兩山之間。逢銅大佛。々長七八丈。腹中空洞。應容數百人。背後有穴。脱鞋入腹。僉云。此中往々博奕者白晝呼五白之處也。無堂宇。而露坐突兀。

当時は相当荒れ果てていたようで、博打をする者が白昼から大仏の中に入っていた、堂宇はなく露座のままだと詠じています。

「梅花無盡蔵」は室町時代の僧、万里集久が書いたもので、永正3年(1506年)に成立したものとされています。万里は文明18年(1486年)10月24日に大仏を訪れていますが、これには、あれっ、と思わざるを得ません。1498年に大仏殿は大津波で崩壊したはずなのに、万里は1486年段階で堂宇はなかったとしているからです。確かに堂宇がなければ、無頼の徒が大仏の内部に入るのも簡単です。

堂宇と大仏のどちらもはっきりしない状態のまま次回に続きます。

            ―鎌倉大仏の謎 その3に続く―
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