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鎌倉大仏の謎 その3

鎌倉大仏の謎
01 /21 2011

風土記の記述は整合性に欠け、後世の私たちが読んで混乱してしまいます。大仏殿は多分、応安2年(1369年)に転倒して、その後再建されなかったのでしょう。当時は皇室が南北に分かれ争いが絶えず、世の中も疲弊していたはず。鎌倉は見捨てられた土地となり、応安2年以降堂宇を再建できそうな資金力を持つ人物・組織など存在しなかったと考えるのは妥当なようにも思えます。

1498年の大津波が大仏殿を破壊するほどの規模であったとしても、堂宇がなければ破壊も何もありません。想像するに、堂宇が転倒して、がらくた状態のまま放置されていたところへ大津波が襲い、きれいさっぱり洗い流したので、堂が破られたと記述したのではないでしょうか?

以下、風土記などをベースに再度整理します。

1243年に木造阿弥陀如来像が造立
1247年に像も大仏殿も亡失
1252年釈迦如来像鋳造開始(阿弥陀如来像の誤りとされる)
1369年堂宇転倒し大仏は露座となる(以降露座のまま)
1498年仏殿倒壊し大仏は以降露座のままとなる(一般的な説)
露座となったままの阿弥陀如来像が現在の鎌倉大仏


となります。定説では木造阿弥陀如来像→金銅阿弥陀如来像ですが、

木造阿弥陀如来像→金銅釈迦如来像→金銅阿弥陀如来像(現存)
                         →盧遮那仏像(??)

という経緯があったのかもしれません。それにしても、なぜこれほどまでに混乱を招いているのか実に不可解です。また、「吾妻鏡」には大仏の完成時期が記されていません。当然開眼供養に関しての記載もなく、理解に苦しみます。建長7年(1255年)8月9日の幕府の追加の法で、人身売買銭没収大仏鋳造に充てる、とありますので、この時点ではまだ造営中だったようです。 

なお、「吾妻鏡」は正元元年(1259年)や弘長2年(1262年)の記述が抜け落ちています。この中に完成記事があったのかもしれませんが、今となっては確認する術はありません。それにしても、「吾妻鏡」に抜け落ちがあるにせよ、他の書籍・紀行文に明確な記述があってもよさそうなものですが……。

以上、鎌倉大仏の事始めから現在に至る経緯を見てきました。木像がなぜ金銅に変わったのか。なぜ金銅大仏の完成時期が不明なのか。大仏造営にどの程度幕府の関与があったのか。など様々な疑問が湧いてきます。Wikipediaはどうこれらの問題を見ているのか、長くなりますが以下引用します。

高徳院は、鎌倉のシンボルともいうべき大仏を本尊とする寺院であるが、開山、開基は不明であり、大仏の造像の経緯についても史料が乏しく、不明な点が多い。寺の草創については、鎌倉市材木座の光明寺奥の院を移建したものが当院だという説もあるが、定かではない。初期は真言宗で、鎌倉・極楽寺開山の忍性(にんしょう)など密教系の僧が住持となっていた。…中略…

『吾妻鏡』には、暦仁元年(1238年)、深沢の地(現・大仏の所在地)にて僧・浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められ、5年後の寛元元年(1243年)に開眼供養が行われたという記述がある。同時代の紀行文である『東関紀行』の筆者(名は不明)は、仁治3年(1242年)、完成前の大仏殿を訪れており、その時点で大仏と大仏殿が3分の2ほど完成していたこと、大仏は銅造ではなく木造であったことを記している。

一方、『吾妻鏡』には、建長4年(1252年)から「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたとの記事もある。「釈迦如来」は「阿弥陀如来」の誤記と解釈し、この1252年から造立の開始された大仏が、現存する鎌倉大仏であるとするのが定説である。なお、前述の1243年に開眼供養された木造の大仏と、1252年から造り始められた銅造の大仏との関係については、木造大仏は銅造大仏の原型だったとする説と、木造大仏が何らかの理由で失われ、代わりに銅造大仏が造られたとする説とがあったが、後者の説が定説となっている。

『吾妻鏡』によると、大仏造立の勧進は浄光なる僧が行ったとされているが、この浄光については、他の事跡がほとんど知られていない。大仏が一僧侶の力で造立されたと考えるのは不合理で、造像には鎌倉幕府が関与していると見られるが、『吾妻鏡』は銅造大仏の造立開始について記すのみで、大仏の完成については何も記しておらず、幕府と浄光の関係、造立の趣意などは未詳である。


Wikipediaの記事を読んだだけでも、不明な点がいかに多いかご理解いただけると思います。

             ―鎌倉大仏の謎 その4に続く―
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酔石亭主

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