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鎌倉大仏の謎 その5


前回は総国分寺碑を見ただけで終わってしまいました。今回は、仁王門から境内に入ります。

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大仏です。

大仏にしてはややこじんまり見えるので、もっと大きく見える撮影ポイントを探しました。

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大仏をもう一枚。

背後の山が肩の下に来る位置で撮影すると、くっきり澄んだ青空を背景に大きくせり出して見えます。ここがベストポイントかもしれません。

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横から見た大仏です。やや猫背ぎみですね。

前回で、東大寺大仏と鎌倉大仏を対比させてみました。そこでまず、東大寺大仏の造立経緯から見ていく必要があります。Wikipediaによれば、「東大寺大仏は、聖武天皇により天平15年(743年)に造像が発願された。実際の造像は天平17年(745年)から準備が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会が実施された」とあります。

一方浄泉寺の創建は天平9年とされています。天平9年は737年で東大寺大仏造像を発願した以前に、聖武天皇は浄泉寺の建立を発願したことになります。浄泉寺の重要性が見て取れますね。この年は疫病が流行し、藤原四卿が相次いで死去します。天皇は唐から帰国した玄(げんぼう)らを重用し、国家の立て直しに邁進しようとしていました。天皇は天平13年(741年)国分寺建立の詔を発します。ただ国分寺建立の詔は、天平10年から12年の間と言う説もあります。

さらに、Wikipediaの国分寺の項には以下記載あります。

この詔の以前から国ごとに、天平9年(737年)には釈迦三尊像の造像と大般若経を写すこと、同12年(740年)には法華経10部を写し七重の塔を建てることの詔を出している。


浄泉寺の創建はこの釈迦三尊像の造像の詔と関係している可能性もあります。いずれにせよ、浄泉寺が東国総国分寺として創建されたなら、実際の創建は天平13年以降になると思われ、東大寺大仏建立の詔を発する天平15年(743年)と、浄泉寺創建との間にはほとんど時間差はなかったものと推定されます。

つまり、東大寺大仏建立発願と、浄泉寺創建はほぼ同時期に聖武天皇によってなされたものと考えられるのです。その時代背景は以下Wikipediaより引用します。

聖武が位についていた8世紀前半、すなわち天平時代の日本は決して安定した状況にはなかった。天平9年(737年)には、当時の政治の中枢にいた藤原武智麻呂・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂の四兄弟が、当時猛威をふるっていた天然痘(疫病)で相次いでこの世を去った。そのほかにも、天平時代は例年旱魃・飢饉が続き、天平6年(734年)には大地震で大きな被害があり、国分寺建立の詔の出る前年の天平12年(740年)には九州で藤原広嗣の乱が発生するなど、社会不安にさらされた時代であった。聖武による国分寺の建立、東大寺大仏の造立には、こうした社会不安を取り除き、国を安定させたいという願いが背景にあったものと推測されている。


一方時忠は聖武天皇の神亀年間(724年から728年)まで鎌倉に居住し、東国八ヶ国の総追捕使として東国の治安を預かっています。そして時忠の子が東大寺初代別当の良弁になるのです。

良弁は若狭神宮寺の資料では秦常満の子で秦氏とされています。ところが「東大寺縁起絵詞」によれば、良弁は相模国大隅郡漆窪の漆部氏で、持統天皇3年に誕生し、嬰児のとき、金色の鷲(わし)が取って飛び去ったとしています。

ここで気になるのは、宇佐八幡宮の「宇佐託宣集」に鍛冶翁が金色の鷹(たか)になって示現したとあることです。日本においては鷹と鷲はほぼ同じものとして考えられており、良弁の伝説と宇佐八幡宮の伝説には相通じるものがありました。

その共通性を秦氏と考えれば、良弁の出自はともかく、彼は鍛冶翁である金色の鷲すなわち鍛冶・産鉄系の秦氏の許で育てられたと考えられます。つまり良弁は、少なくとも秦氏の影響下にある人物と言えましょう。なお大隅郡漆窪は現在の秦野市北矢名で、こちらでも秦氏との関係が出てきそうです。

また彼は近江の出身という説もあります。近江はご存知かもしれませんが、依知秦氏の拠点で、彼らは愛知郡に居住していました。大和岩雄氏の「秦氏の研究」(大和書房)によれば、愛知郡の郡領は秦氏であり、八世紀・九世紀まで、近江国愛知郡は、ちいさな「秦王国」であった。と書かれています。つまり良弁は、いずれの出生地であったとしても、秦氏絡みと言うことになるのです

ここで今までの登場人物の生没年などを見ていきましょう。

聖武天皇:生没年:大宝元年(701年)- 天平勝宝8年(756年)
      在位:神亀元年(724年)- 天平勝宝元年(749年)
染屋時忠:鎌倉に在住が文武天皇期(697年-707年)より 神亀年中(724年-728年)。
良弁:  生没年:朱鳥3年(689年)-宝亀4年(773年)
行基:  生没年:天智天皇7年(668年) - 天平21年(749年)


当然のことですが、全員がほぼ重なっています。その重なりは東大大仏造立と鎌倉大仏仁王門の前にある東国総国分寺碑とも重なっているのです。巨大な目には見えない地下水脈が唸りを上げて流れ続けていると思いませんか?

               ―鎌倉大仏の謎 その6に続く―

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