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鎌倉大仏の謎 その6


今回は、なぜ聖武天皇が東大寺大仏造立を発願したのか、その発端となった部分から見ていきましょう。

天皇は天平12年河内国大県郡にある知識寺の盧舎那仏を拝し、東大寺の盧舎那仏造立を発願します。「続日本紀」には以下記載あります。

天平勝宝元年12月27日:去辰年河内国大県郡乃智識寺尓坐盧舎那佛遠礼奉天則朕毛欲奉造止思

智識寺に関しては以下Wikipediaより引用します。

知識と呼ばれた仏教信徒の財物及び労力の寄進によって建立された寺院を「知識寺/智識寺」と称したが、その中でも河内の知識寺は後に「日本の三大仏」に数えられた廬舎那仏を安置するなど、その規模の大きさで知られていた。7世紀後半に茨田宿禰を中心とした知識によって創建されたと伝えられ、河内国大県郡の一部に相当する柏原市の遺跡からは白鳳期の瓦や薬師寺式伽藍配置の痕跡などが発掘されており、知識寺の跡であるとする有力説の根拠とされている。また、知識寺の東塔の塔心礎(礎石)と見られる石が現在でも石神社に残されている。740年(天平12年)に聖武天皇が同寺に行幸して、廬舎那仏の姿と同寺を支える人々の姿に魅了され、後に東大寺盧舎那仏像を造像するきっかけになった。


もともと河内国は秦氏系の人たちが多数居住していました。では知識寺とはどんな寺なのでしょう?まず茨田宿禰とありますが、「古事記」に茨田連が秦人を使って茨田堤を築いたとあります。そして茨田(現寝屋川市)にはグーグル地図画像からご理解いただけるように多数の秦氏地名があり、伝秦川勝の墓まであります。


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グーグル地図画像。秦氏地名が多数あります。

さらに知識寺の北には秦寺と呼ばれた教興寺があり、高尾山一帯は秦氏系の金知識衆が居住していました。東大寺大仏造立に係わった鋳工の多くは河内国の秦氏系氏族だったのです。例えば、高安郡の秦舟人などです。以上から、知識寺もこうした金知識を持つ秦氏系の寺と考えらます。

聖武天皇は秦氏系の寺であった知識寺で大仏造立を発願します。しかし、事は思うように進みません。そこで登場したのが、秦王国に鎮座する宇佐八幡宮の八幡神です。八幡神は、我天神地祇を率い誘いて必ず事を成さしめるであろうと、託宣。その言葉通り、東北で金が発見され大仏は完成します。天皇は大仏造営現場に八幡神を迎えるのですが、これが東大寺境内にある手向山八幡宮とされています。

以上から、聖武天皇の発願から大仏の完成までには、最初から最後まで河内と豊前の秦氏系氏族が関与していたとわかります。だとすれば、東大寺大仏と鎌倉大仏を繋ぐ巨大な地下水脈とは秦氏のことかもしれません。

「鎌倉大仏の謎 その4」で東大寺大仏と鎌倉大仏を対比し、東大寺大仏は日本の総国分寺、鎌倉大仏は東国の総国分寺としました。しかし風土記は、高徳院の前身である浄泉寺が東国の総国分寺と言う考え方は非であるとしています。なぜなら、相模国の国分寺は高座郡(今の海老名市)にあるからです。

そこで相模国における国分寺について、もう少し深読みしてみたいと思います。調べてみると、相模国に国分寺と称される場所が他にも存在していました。その一つが秦野市蓑毛の大日堂です。この名前に見覚えありませんか?そう、「相模国の秦氏」で取り上げた大日堂です。「相模国の秦氏 その6」(2010年4月27日)において「宝蓮寺大日堂および諸堂」という解説板の写真を掲載し、内容に関連して以下のように書いています。

この解説板の不動堂に注目ください。縁起によれば、7世紀頃、秦氏がその守り本尊である不動明王を祀ったのが始まり、とあります。秦氏の存在がはっきりと出てきました。

なお解説板にある大日堂の縁起では、天平14年(742年)聖武天皇の勅願所として造営されたとあります。「秦野市史」第一巻で調べてみると、宝蓮寺縁起には秦武元という人物が出てきて、大施主が聖武天皇と光明皇后、本願は行基、導師が良弁などと記されています。(注:現在大日堂を管理しているのが宝蓮寺)

もう少し具体的に知るため、図書館で「相模の国府と国分寺」(新人物往来社)という本を読んでみました。(禁貸出の本のため自宅に持ち帰れません)

著者の中村兵吉氏によれば、

天平時代に至り、聖武天皇の勅願によって国分寺ならびに東大寺大仏造立の一環として大日如来を安置した。降って平安時代、国府が大住に移るに及んで、海老名の相模国分寺をこの寺域に移して覚王山安明院国分寺と呼称した。


とのことです。つまり、大日堂は東大寺大仏造立と関係を持っているのです。なお、海老名国分寺は元慶3年(879年)9月の大地震で使用不可となり、国府が移った大住郡の大日堂に移ったとされます。また大住郡に移った国府は現在の秦野市にあります。

日本の総国分寺である東大寺大仏には秦氏系氏族の強い関与があり、相模国の国分寺となった大日堂の始まりも秦氏でした。ここで東大寺大仏、大日堂、鎌倉大仏(浄泉寺)に登場する重要人物を対比します。

東大寺大仏:発願/聖武天皇、開山/良弁、勧進/行基、 日本の総国分寺/奈良 
大日堂:大施主/聖武天皇と光明皇后、導師/良弁、本願/行基、相模国の国分寺
浄泉寺:創建/聖武天皇、お隣の時忠の子/良弁、開山/行基、東国の総国分寺/鎌倉


実に見事な対比関係が出来上がりました。東大寺大仏と鎌倉大仏を繋ぐ地下水脈は、相模国にある秦氏の大日堂を経由して存在していたのです。

この回路がどんなものだったのかもう少し詳しく追ってみましょう。以下神奈川県公文書館ホームページ紀要第六号より引用します。

『大山縁起』(真名本)には、「良弁者相模国鎌倉郡由伊(井)郷人也、俗姓漆部氏、当国良将漆屋太郎大夫時忠子也」と記載されている。また、建武4年(1337年)の奥書をもつ「東大寺縁起絵巻」には、「良弁僧正者相模国大隅(住)郡漆窪云所ノ漆部ノ氏人也」とあり、さらに『東大寺要録』にも「僧正者相模国人漆部氏也」とあることから、良弁父子が相模国漆部氏と密接な関係を有する人物であるとともに、その存立基盤が相模国鎌倉郡由井郷か大住郡漆窪の何れかに存在したと思われる。この両者を比較した時、良弁と大山との関係、俗姓と地形・地名、大山との至近距離にある立地条件、有力古墳の分布状況等々を勘案すると、鎌倉郡由井郷よりも大住郡漆窪(現 秦野市北矢名付近には、漆窪・大夫久保の字名が存在する)がにわかに注目されてくる。



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大日堂と北矢名の位置関係を示すグーグル画像。大日堂は上の端。

鶴巻温泉の鶴の字辺りが北矢名です。空海の弘法山の麓になります。ここは空海が修行した場所とされています。

上記引用は主に良弁についての記述ですが、その内容から染屋太郎大夫時忠=漆屋太郎大夫時忠=漆部伊波となり、時忠と漆部伊波は同一人物であるという流れがはっきり見えてきます。そして時忠の住居は大日堂とも近い秦野市北矢名であり(矢名という地名にヤが入って秦氏地名の可能性あり)、もう一つの住居が鎌倉の由井郷でした。由井郷から鎌倉大仏までは目と鼻の先です。そして、時忠こと伊波は大仏造立に際して知識物を献上しており叙位を受けていました。

東大寺の初代別当であり大山を開山した良弁は「鎌倉大仏の謎 その5」で論証したように、秦氏はあるいは秦氏の強い影響下にある人物です。その父親である時忠は東大寺大仏造立に関連して叙位を受けています。

すなわち東大寺大仏と鎌倉大仏を繋ぐ回路に、鎌倉の始祖たる染屋太郎大夫時忠及びその子である良弁が存在しているのです。良弁は東大寺の初代別当であり、秦氏が居住する秦野の出身でした。彼は大山を開山したのですが、大日堂のある蓑毛はその南の登山口に当たり、峠がヤビツ峠でそれはヤハウェ神のヤ、八幡のヤから採られています。また良弁は鎌倉由井郷の人でもあるのです。

つまり良弁こそが、東大寺大仏、大日堂、鎌倉大仏(浄泉寺)のいずれにも関与できる資格を備えた人物だったのです。

彼の父である時忠はもう一つの顔を持っていました。酔石亭主は鎌倉を巨大製鉄都市と称しましたが、それに深く関与していたのが時忠だったのです。鎌倉は当時、朝廷の東北経営の拠点(特に鉱産品確保のための拠点)でした。鎌倉大仏近くに由井の長者である染屋太郎大夫時忠の住居跡があり、その子である良弁も居住していたとされるのは、鎌倉が朝廷の東北経営の拠点であったためと推測されます。

時忠は鎌倉の長者久保(窪)に居住していたとされます。この地名がなぜ青森、秋田、福島など東北地方に多いのか不思議に思っていましたが、古代の鎌倉を東北経営の拠点と位置付ければ頷ける話です。浄泉寺が東国三十三ヶ国総国分寺と称された背景には、こうした時忠の動きもあったものと推測されます。

以上を背景として東大寺大仏の500年後、深澤里に鎌倉大仏が造立されました。では、なぜ深澤里だったのでしょう?それは時忠が創建した甘縄神明神社に近かったからです。今まで鎌倉大仏の謎に関して幾つかの論考が提出されています。しかし、なぜあの場所に鎌倉大仏が造立されたのかを論じたものは一つもありません。鎌倉大仏が時忠と良弁の拠点に近い場所に造立されたのは、酔石亭主の視点からすれば必然であったのです。

東大寺大仏を一足飛びに鎌倉大仏(東国総国分寺浄泉寺)と関連させるのは若干無理があるかもしれません。しかし、秦氏の大日堂を介在させることでその距離は縮まります。秦氏を媒介として東西の両大仏が繋がる構図がようやく見えてきました。

日本国の総国分寺である東大寺に大仏は造立されました。一方、国分寺でもないのに浄泉寺は東国三十三箇所総国分寺と称されました。その理由はもう明らかです。浄泉寺は大仏が造立されるべき場所であったことから、国分寺とはならなくても、逆にそのように称されなければならなかったのです。

上記の考察から、鎌倉大仏は聖武天皇の時代に造立が検討されていた、と推測されます。後世になって正にその場所に鎌倉大仏が造立されたのが、何よりの傍証となるでしょう。由井の里に近い深澤里は大仏が建てられるべき予定地だったのです。風土記は東国総国分寺の存在を非としましたが、必ずしも非とはできない理由がそこにあります。

ただこれだけでは、浄泉寺が東国総国分寺とされた理由を十分に説明し切れていません。大仏造立は国家的な大事業であり、極めて重要なもののはずです。重要なものは、それが何であれ、必ず重要な場所に存在しています。ここまで東大寺との対比において見てきましたが、次に鎌倉大仏は鎌倉にとって重要な場所に存在している、と言う視点から見ていきたいと思います。

鎌倉にとって最も重要な場所とは、鎌倉を守る真の鬼門ライン、すなわち金山の白山神社と横浜市栄区の鍛冶ヶ谷近くにかつて鎮座していた白山神社を結ぶラインです。だとすれば、鎌倉大仏はこのライン上にあるはず。そう思い地図でラインを確認すると、想定通り鎌倉大仏の上を鬼門ラインが通っていました。

今まで個別に見てきた鎌倉に関する幾多の謎や相模国の秦氏などが、全て鎌倉大仏の存在と結びつきを持っていたのです。これを偶然と退けることはできません。

ではなぜ聖武天皇期に鎌倉大仏は造立されなかったのか?それは、莫大な費用のかかる東大寺の大仏造立が最優先されたからです。

実際、東大寺の大仏でさえ使用する金が不足していました。調達のため遣唐使の派遣さえ議論され、一方聖武天皇は良弁に祈願を命じます。そして天平21年(749年)、陸奥国小田郡涌谷村において、百済王敬福が日本初の金採掘に成功したのです。そうした当時の財政状況では、とても鎌倉大仏の造立まで手が回らなかったのでしょう。深澤里は大仏が造立されるべき地として、500年の長い眠りについたのです。

それにしても…、「鎌倉大仏の謎」を書き始めた段階ではこんな展開になるなど予想も想像もしていませんでした。

             ―鎌倉大仏の謎 その7に続く―


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