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鎌倉大仏の謎 その8


東大寺の大仏開眼供養には、世界各国から人が招かれ1万5千人が出席したそうです。一方鎌倉大仏の場合、木造大仏はともかく、青銅大仏開眼供養が催されたとの記述はどこにもありません。国家が関与していなかったとの説(高徳院の解説板)もありますが、莫大な費用がかかる大仏造立を個人の力でできるはずがありません。鎌倉大仏はなぜそのような開眼供養が催されなかったのか、あるいは催された事実が隠されてしまったのか、これが最大の謎として存在しています。
ここでWikipediaの記事を再度引用します。

『吾妻鏡』には、暦仁元年(1238年)、深沢の地(現・大仏の所在地)にて僧・浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められ、5年後の寛元元年(1243年)に開眼供養が行われたという記述がある。同時代の紀行文である『東関紀行』の筆者(名は不明)は、仁治3年(1242年)、完成前の大仏殿を訪れており、その時点で大仏と大仏殿が3分の2ほど完成していたこと、大仏は銅造ではなく木造であったことを記している。一方、『吾妻鏡』には、建長4年(1252年)から「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたとの記事もある。釈迦如来」は「阿弥陀如来」の誤記と解釈し、この1252年から造立の開始された大仏が、現存する鎌倉大仏であるとするのが定説である。


木造大仏に関しては比較的史料があるようですが、開眼供養で讃を唱える僧侶が10人と「吾妻鏡」は伝えています。ちょっとした有名人のお葬式でも10人程度のお坊さんが経を唱えるのに、この人数はあまりにも少なすぎます。つまり木造大仏の開眼供養はあったにしても、既に理解し難い状況が現れているのです。

そして銅造大仏に関してはほとんど何も語られていません。これは極めて不思議なことですが、「吾妻鏡」は鎌倉時代末期に書かれた鎌倉幕府の公的歴史書ですから、その姿勢には幕府の意志が反映していると言っていいでしょう。では、銅造大仏の造立が開始された建長4年(1252年)とはどんな年なのでしょうか?そこから何かヒントでも見出せるかもしれません。

まず、忍性が鎌倉に進出し始めるのがこの時期です。以下Wikipediaより引用します。

建長4年(1252年)本格的な布教活動のために関東へ赴き、常陸三村寺(御家人八田知家の知行所。現在は廃寺)を拠点に、当時常総地域に広がっていた内海の舟運を利用しつつ布教活動を行い、鎌倉進出の地歩を固める。
正元元年(1259年)北条重時から招きをうけ極楽寺の寺地を相す。
弘長元年(1261年)北条時頼・北条重時・北条実時らの信頼を得て鎌倉へ進出。北条重時の葬儀を司り、最初は釈迦堂(現在は廃寺)に住む。


建長4年(1252年)とは正しく金銅大仏の鋳造が開始された年です。その年に忍性が鎌倉進出の地歩を固めているのです。とすれば、忍性の関与が鎌倉大仏の背後にあったのかもしれません。忍性は鎌倉の利権を一手に握り、巨大な資金力を誇っていました。資金面でも大仏に関与し得る第一人者と言えましょう。

忍性の利権一人占めに腹を立てた日蓮は幕府に直訴、日蓮法難という首が飛びそうな事態を招いたのです。現代に至っても日蓮宗側は、忍性について極悪人とののしっています。鎌倉時代の恨みが700年以上も続いているとは、そのねちっこさに呆れ果てるしかありません。

ということで、次回はこの時期の忍性について少し詳しく見ていきましょう。

               ―鎌倉大仏の謎 その9に続く―
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