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鎌倉大仏の謎 その10


鎌倉大仏造立の二番目の条件は、民間側と幕府側の両方に関与する人物がいることです。忍性は民間側の人物であり、第二の条件を満たしています。幕府側に関しては忍性の検討を終えてから見ていきましょう。

第三の条件は大仏を造立するに足る資金力を備えていることです。

忍性は既に書きましたように鎌倉の利権を一手に握っています。例えば、鎌倉の港湾施設である和賀江嶋の管理権、前浜の殺生禁断権(漁民に漁業を許す権利つまり漁業権)、鎌倉七道における通行料徴収権などですね。これらを通じて莫大な利益が忍性の懐に転がり込んできます。手中に収めた利益を損なわないよう、彼らは相模湾を航行する商船、漁船を常時監視していました。その監視所が、新田義貞鎌倉攻めの激戦地仏法寺だったのです。

忍性はまた配下に大工、石工などを抱え、寺院建設、道路整備、橋の架橋及び修理、井戸掘りなどのゼネコン事業も手掛けていました。当然相当額の上がりがあったものと推定され、資金力と言う第三の条件は十分クリアされるでしょう。ただ、彼の事業と大仏造立は時代的にやや不整合があります。

第四の条件は、鎌倉幕府をして公的歴史書である「吾妻鏡」に記載をためらわせる事情を持つ人物であるかどうかです。

官と民と言う言葉がありますが、忍性と律宗組織は鎌倉時代における民のチャンピオンと目される存在です。(実態としては幕府より業務委託を受けた独立行政法人的な存在とも言えましょう)ところが忍性について「吾妻鏡」は何一つ記載していません。鎌倉幕府の厚い信頼を得て事業展開した忍性を、なぜ「吾妻鏡」は取り上げなかったのか。誰でも立ち止まってしまうこの謎をどう考えればいいのでしょう?そのヒントは彼が関与した事業にあると思われます。

鎌倉幕府は武家社会であり表社会です。一方忍性の慈善事業は裏社会で展開されてきました。彼が管理し係わったのは、らい病患者や困窮民など非人扱いされる人々です。当時死者は由比ヶ浜などに埋葬されました。鎌倉時代前浜と呼ばれた由比ヶ浜一帯の管理権を持つ忍性すなわち極楽寺の律宗組織は当然遺体の処理にも従事していたでしょう。鎌倉の穢れの部分を受け持つ忍性と律宗組織が大仏建立に関与していた。この事実を幕府はどう整理すべきか悩んだはずです。

大仏造立は表の事業であり、国家的事業です。幕府は「吾妻鏡」に、裏稼業全般を取り仕切っていた忍性と律宗組織が大仏造立を進めていたと書けるでしょうか。当然強いためらいを感じるはずです。しかし忍性について大仏関連だけ抹消するのもおかしなことになる。だから幕府は、忍性に関する記事を「吾妻鏡」から全面的に抹消するしかなかった。すると必然的に大仏造立の記事は矮小化せざるを得なくなる―そうは考えられないでしょうか?

そもそも鎌倉大仏が造立された深澤里は異界と接続する鎌倉の境界領域であり、立地自体が裏社会的な場所だったのです。白山神社から大仏、隠れ里の佐助ガ谷、鍛冶ヶ谷の白山神社を繋ぐ鬼門ラインもまた、関与しているのは裏社会のメンバーでした。

そうした鎌倉の裏側、穢れの部分を受け持つ人物と組織が大仏に関与していると書くことはできない。「吾妻鏡」における幕府の態度が、意識的に忍性の存在を消し、かつ大仏に関する記述を避けているような雰囲気を漂わせている理由はそこにあります。

「吾妻鏡」が編纂されたのは、律宗となった称名寺の金沢文庫であり、編集に当たったのは寺の大檀那である金沢氏とされています。(諸説あり)一方忍性は、嘉元元年(1303年)極楽寺において87歳で死去しています。

「吾妻鏡」の編纂と忍性の死去はほぼ時を同じくしています。カリスマ的トップを失った律宗組織は自らの権益だけは保持しようと考えたでしょう。よって「吾妻鏡」に忍性の存在を書かないこと、表社会の大仏造立に関する記事に関与の痕跡が残らないよう記述することに自ら進んで合意し、一方従来の権益は死守し続けたと考えられないでしょうか?

つまり、「吾妻鏡」に忍性の存在が記載されず、大仏関連記事も矮小化させることは律宗側の合意があってのことだと考えられるのです。そもそも金沢文庫は律宗化した称名寺の中にあるのです。そう考える以外にこの矛盾を矛盾のない形に再構成することはできません。

しかし、これでもまだ矛盾が残ります。幕府側の関与した人物のことはどうなるのかと言う矛盾です。これは忍性を検討し終わって後に考えていきたいと思います。

では、大仏造立の勧進を務めたと書かれている浄光の存在はどう考えればいいのでしょう?彼は浄土宗系の念仏僧であるとされています。ところが念仏僧集団は忍性の律宗組織に組み込まれてしまいます。

浄光は律宗の組織下にある存在でした。しかし彼は本来念仏僧です。それは、浄光を忍性一派とは別物として記載可能なことを意味しています。よって浄光の勧進で最初の木造大仏が造られたと「吾妻鏡」に記載されたのです。矮小化の具体例ですね。

念仏僧と律宗の関係は他の例からもうかがい知ることができます。例えば和賀江港です。鎌倉唯一のこの港湾施設は、往阿弥陀仏と言う念仏僧が北条泰時に願い出て、1232年に完工したものです。念仏僧はまた金沢文庫で有名な称名寺も建立しています。しかし港の管理権は極楽寺に移り、称名寺も律宗寺院となり、念仏僧集団は律宗の傘下に置かれることとなったのです。

                ―鎌倉大仏の謎 その11に続く―
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