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鎌倉大仏の謎 その11


前回までの検証で、忍性は大仏造立に必要とされる条件をクリアしているとわかりました。しかしなおも問題があります。忍性の活躍した時代と大仏造立時期にずれがありそうに思えるからです。今日はこの問題から見ていきましょう。忍性の動きは再度Wikipediaより引用します。

建長4年(1252年)本格的な布教活動のために関東へ赴き、常陸三村寺(御家人八田知家の知行所。現在は廃寺)を拠点に、当時常総地域に広がっていた内海の舟運を利用しつつ布教活動を行い、鎌倉進出の地歩を固める。
正元元年(1259年)北条重時から招きをうけ極楽寺の寺地を相す。
弘長元年(1261年)北条時頼・北条重時・北条実時らの信頼を得て鎌倉へ進出。北条重時の葬儀を司り、最初は釈迦堂(現在は廃寺)に住む。
弘長2年(1262年)北条時頼の要請により東下してきた叡尊に謁する。…中略…鎌倉の念仏者(浄土教系)の指導者念空道教が叡尊に帰依したことで、忍性が鎌倉の律僧・念仏僧の中心的人物となる。
弘長4年・文永元年(1264年)鎌倉雪ノ下で非人3000人を救済する。


一方大仏の造立は以下となります。
1238年大仏堂事始め。
1243年に木造阿弥陀如来像が造立。
1247年に像も大仏殿も亡失。
1252年釈迦如来像鋳造開始。(阿弥陀如来像の誤記とされる)
1264年までに大仏と大仏殿が完成したとみられる。

金銅大仏は建長4年(1252年)に鋳造が始まり、鋳造に参加した河内国の鋳物師丹治久友の肩書が文永元年(1264年)の東大寺真言院梵鐘銘では「鋳物師新大仏寺大工」とあることから、1264年までの間に完成したと言うのが一般的な説となっています。

年代を対比すると、木造、金銅の鎌倉両大仏造立が忍性の鎌倉での活動時期より若干早いように思えます。ところが…。

忍性は寛元元年(1243年)関東すなわち鎌倉に下向し、7月に大和へ帰っています。
木造大仏は寛元元年6月16日に開眼供養が行われています。

忍性は建長4年(1252年)再び東国に赴き、8月14日に鎌倉を訪問、続いて鹿島神宮を参詣の後、北関東の三村山(筑波山山麓)に入ります。
金銅大仏は建長4年(1252年)8月17日から鋳造が開始されます。

上記から、忍性の動きが木造、金銅の両大仏と連動しているような印象を受けます。つまり、ずれがあったように見える忍性の活動時期と大仏造立時期の間にずれはなかったと言えるのです。忍性が三村山極楽寺に入ってからの活動がほとんど記録にない点も気になります。忍性の動きが隠密化しているのと、「吾妻鏡」に大仏の記載が乏しい点も連動性を感じさせます。

さらに、金銅大仏の鋳造には有能な鋳物師が必要です。鎌倉大仏の場合、丹治久友がその役割を担いましたが、彼は河内の鋳物師で、河内は忍性の師である叡尊が布教活動を推進した土地です。叡尊は河内での布教活動により彼らを律宗に帰依させました。久友などの鋳物師は叡尊・忍性ラインで鎌倉に招かれたのです。大工、石工を配下に置き、鋳物師も帰依させた極楽寺の律宗は大仏造立に最も適した組織であったと言えるでしょう。

一方行基は、東大寺大仏造営の際河内国の秦氏系鋳工の援助を得ています。この部分も鎌倉大仏と相似形となっていますね。

忍性と極楽寺の律宗組織は鎌倉大仏造立に関与できる人物と組織でした。それはここまでの検討でほぼ証明されたと思います。

             ―鎌倉大仏の謎 その12に続く―

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