FC2ブログ

鎌倉大仏の謎 その12


鎌倉は初代将軍である源頼朝から源実朝までの源氏三代と、それに続く北条得宗家が支配者として君臨しました。「吾妻鏡」は当然のことながら北条氏によって編纂されたものであり、北条得宗家について好意的に、源氏三代については手厳しく記述されています。

そして頼朝は大仏造立の願いを持っていました。その意志がベースとなって大仏造立に至ったとすると、得宗家にとって大仏は、是非あって欲しいものではあるが、何となくすっきりしないものが残る、といった感情が湧いて出るはずです。大仏に関する記述が冷淡で素っ気ない理由の背後にはそんな事情も存在していたのではないでしょうか?

では幕府側で、頼朝の意志を受け継いだ人物は誰でしょう?東大寺大仏のメンバーと精神的あるいは血脈的繋がりがあり、頼朝から信頼された実力者で、資金力もあり、しかも得宗家からは疎んじられた誰かとなると、大仏に関与した人物はかなり限られてきます。というか、そんな都合の良い御家人はいないかもしれません。

ともかく頼朝から信頼されていた武将を思い浮かべてみます。一番手は安達藤九郎盛長ではないでしょうか?彼について以下Wikipediaより引用します。

源頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍を妻としており、頼朝が伊豆の流人であった頃から仕える。妻がかつて宮中で女房を務めていた事から、藤原邦通を頼朝に推挙するなど京に知人が多く、京都の情勢を頼朝に伝えていたと言われている。また『曾我物語』によると、頼朝と北条政子の間を取り持ったのは盛長とされる。
治承4年(1180年)8月の頼朝挙兵に従い、使者として各地の関東武士の糾合に活躍。石橋山の戦いの後、頼朝とともに安房国に逃れる。その際、下総国の大豪族である千葉常胤を説得して味方につけた。頼朝が再挙して、鎌倉に本拠を置き関東を治めると、元暦元年(1184年)の頃から上野国の奉行人となる。文治5年(1189年)、奥州合戦に従軍。頼朝の信頼が厚く、頼朝が私用で盛長の屋敷をしばしば訪れている事が記録されている。


一読しただけで、頼朝と盛長の関係が極めて親密であると理解できます。私用で頼朝からわざわざ盛長の屋敷に出向くなんて特に怪しいですね。頼朝は内々に盛長宅に出向き、大仏造立の相談をしていたのかもしれません。

ところで盛長の屋敷ってどこにありましたっけ?どこかで解説石板を見たような記憶があるのですが…、とまで考えて、あれっ!!と声が出そうになりました。何と、彼の屋敷は染屋太郎大夫時忠が創建した甘縄神明神社境内にあるのです。

002_convert_20110205062148.jpg
安達藤九郎盛長住居跡の解説石板です。

盛長の屋敷が甘縄神明神社の境内にあるとなれば、俄然彼が怪しくなってきます。ひょっとしたら盛長は時忠と血縁関係があるのかもしれない。そんな疑惑さえ浮かんできます。そこで盛長の家系を辿ってみます。

盛長の父親は小野田三郎兼広とされ、彼は藤原北家魚名流を称していました。藤原北家の始祖は藤原房前で彼は藤原不比等の次男です。そして藤原不比等は…、松ガ岡(鶴岡八幡宮)に鎌を埋めた藤原鎌足の次男に当たります。

一方、鎌倉の始祖たる染屋太郎大夫時忠は藤原鎌足の玄孫でした。盛長は血脈において、鎌倉の地名由来を作った藤原鎌足及びその玄孫で鎌倉の始祖である時忠と繋がりがあったのです。これは大変なことになりました。甘縄神明神社すなわち盛長の屋敷から鎌倉大仏は目と鼻の先。大仏の敷地が盛長の屋敷の範囲内であった可能性すら感じられます。

頼朝の信頼の厚い人物がなぜこんな鎌倉の境界領域とも言える場所に屋敷を構えたのか。それは盛長が自分の出自を意識していたからに他なりません。そして時忠の子が東大寺大仏造立に重要な役割を果たした良弁なのですから、大仏造立の意志を持つ頼朝が、わざわざ鎌倉の中心から遠い盛長の屋敷を私的に訪問するのも頷けます。

頼朝はきっと、「君のご先祖がやり遂げた事業を俺もやりたいんだ」なんて話していたのでしょう。盛長も「それこそが、時忠や良弁に繋がる私たちの望んでいることなんです」と答えていたかもしれません。

ところで、甘縄神明神社近くには長谷寺(長谷観音)があります。長谷寺は藤原北家の始祖である藤原房前が徳道上人を開山として創建したと伝えられている寺です。不思議な感じですが、藤原鎌足と盛長を繋ぐ中継ぎの人物がすぐ近くに登場してきました。盛長が鎌足や時忠を意識していたのは間違いなさそうです。長谷寺に関しては以下Wikipediaより引用します。

寺伝によれば、天平8年(736年)、大和の長谷寺の開基でもある徳道上人を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山したという。この十一面観音像は、観音霊場として著名な大和の長谷寺の十一面観音像と同木から造られたという。すなわち、養老5年(721年)に徳道は楠の大木から2体の十一面観音を造り、その1体(本)を本尊としたのが大和の長谷寺であり、もう1体(末)を祈請の上で海に流したところ、その15年後に相模国の三浦半島に流れ着き、そちらを鎌倉に安置して開いたのが、鎌倉の長谷寺であるとされる。


以上から、幕府の有力御家人であった安達氏は、鎌倉大仏造立に関与し得る人物の第一番目の条件を満たしていることになります。しかし鎌倉時代の前半は争いが絶えず、大仏造立に割く時間も資金もありません。頼朝の意志を継いだ盛長も全ては自分の子孫に託すしかなかったのです。

               ―鎌倉大仏の謎 その13に続く―
スポンサーサイト



プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
01 | 2011/02 | 03
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 - - - - -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる