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鎌倉大仏の謎 その15


前回で三浦一族滅亡を主導したのは安達氏であることを検証しました。それがどう大仏に繋がるかを考える前に、三浦一族の墓所を見ていきましょう。

頼朝の墓の右手に島津忠久公墓道と書かれた石柱があり、山の岩盤をえぐって道が付けられています。そこで、この細い山道を進んでみます。

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岩を削って石段のようにしています。

結構険しそうに見えます。以前は安全確保の補助ロープがあったようです。

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もう一枚。

石柱の記述からしてこの道は江戸時代に島津重豪によって作られたものと考えられます。それにしても、島津家は随分頼朝に入れ込んでいますね。頼朝の墓を建て、そこから自分たちの祖先の墓に続く道まで整備しているのですから尋常ではありません。

しばし歩くと、整備された三つのやぐらが並んでいました。さぞかし名の知れた武将のものなのでしょう。しかし、どうも不自然な感じがしてなりません。(大仏の話からどんどんそれていきますがご了承ください)三つのやぐらの前に二つの異なる石段があるからです。

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上から見下ろした石段。角度がもの凄く急です。

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見上げた写真。

良く見ると山道から見て手前の二つのやぐら用に一つの石段があり、奥の三つ目のやぐら用にもう一つの石段が取り付けてある形になっています。手前の二つのやぐらは親子か兄弟で、奥の一つは別の人物のものなのでしょう。

ここは法華堂から続く大倉山の中腹で、酔石亭主は島津重豪が切り開いた山道を歩いてやぐらに向かいました。一般的には白旗神社の手前の細い道を東に30mほど歩くと石段があり、登ると広大な平場に出ます。平場の先にはまた急な石段があって、そこを登るとこのやぐらに行き着きます。


大きな地図で見る
グーグル地図画像です。

画像でも二つの墓道が確認できます。登り口では二つの石段の間に一定の距離があり、平場で徐々に距離が狭まって、平場の行き止まりで一気に距離が小さくなります。そして二本が並行したままやぐらに向かって急角度で上がる石段となります。この構造にどんな意味があるのでしょう?ちょっと興味をそそられます。

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平場です。二つの石段が見えますね。

というところで、三つのやぐらに話を戻します。調べてみると左の墓が毛利季光、中央が大江広元、右端が島津忠久の墓でした。季光は広元の子供なので同じ石段となっているようです。つまり、頼朝法華堂跡から続く島津忠久公墓道は、直接的には毛利家の墓へと続いていることになります。これも不自然さを感じさせます…。

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向かって一番左のやぐらです。

毛利季光(もうりすえみつ)の墓とされています。元々の墓は、鶴岡八幡宮の西にある志一稲荷の近くだとされていますが、これも室町時代に建立されたもののようで、実際の埋葬地は不明です。

毛利季光は大江広元の四男となります。季光は宝治合戦において北条氏に味方するつもりだったのですが、妻が三浦泰村の娘で、三浦一族に味方するよう強く迫られ、その言い分を聞いてしまいました。武士の天下となった鎌倉時代でも、男は女房殿に頭が上がらなかったようです。結果、三浦一族と共に法華堂で自害するはめに…。この話、女房殿に何かを強いられても絶対妥協するなという良い教訓になりました。

それはさて置き、彼の四男である毛利経光は越後の居住していたため難を逃れます。そして季光の血脈はかの有名な戦国武将毛利元就へと繋がっていくのです。すなわち毛利季光は安芸毛利家の始祖であったのです。

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中央のやぐらです。

大江広元(おおえのひろもと)の墓とされています。元々の墓は、明王院の裏山にあるものがそれだとされています。広元は朝廷に仕える貴族でしたが、頼朝の側近となって幕府の事務長官として活躍しました。

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向かって右側のやぐらです。

島津忠久(しまずただひさ)の墓とされています。彼の正式名は惟宗忠久で島津家の始祖とされる人物です。忠久の母は頼朝の側室で比企能員の妹丹後局であるとされています。つまり忠久は頼朝の庶子(隠し子)ということになるのですが、これは伝説にすぎないとされています。しかし火のないところに煙は立ちません。何かそんな伝説が発生する素地があったはずです。

頼朝はご承知のように佐助ガ谷の老翁である秦氏系の人物と関係が深かった。一方惟宗氏は秦氏の系統であるとされています。そんな両者の関係が隠し子伝説を生んだと思うのですが、いかがなものでしょう?その傍証が島津家の丸の中に十字の家紋です。昔は丸がなかったので、十字のみ。キリスト教の十字架じゃないのでしょうか?

与太話はさて置き、彼らの墓は古墳時代末期の横穴墳墓を再利用したもので、江戸時代に整備されており、ここに彼らが埋葬されている訳ではありません。それにしても、島津の始祖と毛利の始祖が仲良く並んで祀られているとは、実に不思議ですね。

実際この二つの墓道・石段の構造こそが、江戸後期から幕末期における両者の関係を示していると酔石亭主は邪推しています。石段の最初の登り口では、両者はお互い無関係だよ、と言っているかのごとく離れています。ところが平場に上がると徐々に接近。平場の行き止まりでは左右ほぼ密着状態のまま急斜面の二本の石段となってやぐらに至るのです。

しかも、島津の墓道はほぼ真っすぐですが、グーグル地図画像では、長州の墓道は平場に入ってから急速に島津側にすり寄っているように見えます。幕末期、長州は幕府の第一次長州征伐で非常に危機的な状態となっていました。慶応2年1月21日(1866年3 月7日)に京都二本松薩摩藩邸で締結され薩長同盟がもし成立していなかったとしたら、長州はどうなっていたか。

この墓道はそうした長州側の意識と薩長同盟の成立を暗示・予言しているのではないかと邪推したのですが…、残念ながら事実関係を見ていくと、上記の二つの邪推は当たっていないようです。

島津重豪が頼朝の供養塔を建てたのは、安永8年(1779年)とされており、島津忠久の墓も同時期に整備されたものと思われます。(島津忠久の墓の修復碑文によると、安永8年に石標を造り、墓道を整備したとあります)

一方、毛利季光と大江広元の墓もほぼ同時期に整備されたと推測するのですが…、平場手前に毛利の石灯籠が建てられており、それには安政5年(1858年)と彫られています。これは多分、ペリー来航を機に長州藩が相州の警備を担当し、長州藩士が多くこの地を訪問するようになって設置されたのでは、と思います。

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毛利の石灯籠。毛利家の家紋も彫られています。

しかし、長州藩の遠祖である大江広元の墓は、文政6年(1823年)に設置されたようです。すると、混乱させられてしまいます。なぜなら、島津忠久の墓やぐらは向かって一番奥側(やぐらに向かって右手)になっているからです。頼朝法華堂から山道を付けたのは島津家です。もし毛利の墓がこの時点で整備されていないとしたら、向かって一番左のやぐらを忠久の墓としたはず。

そうなっていないのは、一番左と真ん中の横穴墳墓が毛利の墓として既に存在していたかと考えるしかありません。毛利季光の墓が島津忠久以前に設置されていたとしたら、三つの墓の位置関係をきちんと説明できるのですが…、いかがなものでしょう?

また薩摩藩は天保年間(1830年以降)に正面の参道を整備しています。明治4年(1871年)には大江広元墓への正面参道が整備されます。

上記の経緯からすると、酔石亭主の邪推は正しくないことになりますが、それでもなお謎は残っているのです。そう、三つのやぐらの位置関係の問題です。島津重豪はなぜ毛利季光と大江広元の墓やぐらに至る山道を島津忠久墓道とせざるを得なかったのか?その疑問に合理的に答えるには、二つの墓やぐらが毛利家のものであるとの伝承が重豪の整備以前に存在していたとするしかありません。

島津忠久の墓やぐらもまた、重豪以前に忠久のものだとの伝承が存在していたはずです。だとすれば、現在私たちが目にする二本の石段ではなく、重豪が整備する以前に、岩盤を削った石段がやぐら正面に向けて現在の墓道/石段と同じルートで二本あったと考えられるのです。

上記推論のように、重豪以前に三つのやぐらが毛利季光、大江広元、島津忠久の墓所であるとの伝承が存在していたとすれば、墓道の構造が幕末における薩長の関係を暗示・予言していると言う酔石亭主の邪推は正しいものとなるのです。

またそれが正しければ、薩長同盟は坂本龍馬の仲介から百年も前に、既に成っていたとも言い得るのです。トンデモ説に近いですが、何となく信憑性がありそうに感じられませんか?

話が大きく横道にそれたので、三浦一族の墓所については次回とします。

               ―鎌倉大仏の謎 その16に続く―

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