FC2ブログ

鎌倉大仏の謎 その16

鎌倉大仏の謎
02 /11 2011

今回は三浦一族の墓を見に行きます。やぐらから急な石段を下ります。石段の下には鳥居があって目の前には広大な平場が広がっています。

050_convert_20110207134023.jpg
鳥居です。前回と同じ写真です。

上の写真で鳥居の右手崖に、やや大きめのやぐらが口を開けています。

024_convert_20110210152117.jpg
やぐらです。

このやぐらが三浦一族の墓とされるものです。現在でも供養されている様子です。それにしても、幕府の最有力御家人であった三浦一族500余人が毛利家や島津家の墓所の足下で供養されているとは、何と言う歴史のいたずらでしょうか。

ともあれ北条氏最大のライバルであった三浦氏はこうして滅亡するのですが、三浦氏攻撃を主導したのが安達氏だったのです。その後、9月の大風による大仏殿倒壊など天災が続いたため、三浦氏の祟りだとの噂が流れました。怨霊を鎮めるため、三浦氏討伐の主役だった安達氏が中心となって金銅大仏の造立を企画した、というのが三浦氏の怨霊をベースにした金銅大仏造立説です。

この怨霊説には一定の根拠があり、宝治元年(1247年)に三浦氏が滅び、同年9月に木造大仏もタイミング良く亡失したので、その後再建計画を立て、5年後の1252年から金銅大仏の鋳造が始まったとするのは、年代的にも整合性があると言えます。

しかし酔石亭主は怨霊説に異論があります。なぜなら安達氏は、今まで論証してきたように、最初から大仏造立の意志を持っていたからです。むしろ、三浦氏の怨霊を利用して大仏造立を促進したのではないかと思われます。

025_convert_20110207132629.jpg
墓の前の広大な平場。

これは一体何なのでしょう?誰が、何のためにこのように広い平場(端から端まで約30m)を造成したのか?酔石亭主はここを訪れた際、それが不思議でなりませんでした。あれこれ調べた結果、2005年に発掘調査が行われ、元仁元年(1224年)に死去した北条義時の法華堂跡の可能性が高いと判明したそうです。

「吾妻鏡」元仁元年(1224年)6月18日には、故右大将家「法華堂」東の山上を以って墳墓と為す。とあります。

発掘レポート: http://www.shonan-it.org/hojyo/index.html

しかし妙です。

この場所は山裾に近く山の上ではありません。墓は山上とする「吾妻鏡」の記述とは整合していないのです。仮に北条義時の法華堂があったとして、建物と前庭を含む全体面積は現状の三分の一程度で十分のはずです。

頼朝の法華堂にしても山の中腹のごく狭い敷地に存在していました。供養目的の法華堂にこれほど広大な平場は必要ないのです。遺跡発掘資料によると義時のものとされる法華堂は約8.4mの正方形の建物でした。なのに、ここには不必要なほどの広大な空き地が存在している。一体何のために…。

北条義時法華堂の疑問はなおもあります。義時は法名を得宗と称され、以降北条氏は北条得宗家と呼ばれるようになりました。北条氏にとって重要な人物の法華堂真横に、かつて最大のライバルであり、しかも安達氏の手を借りて滅亡させた一族三浦氏の墓所を設けるでしょうか?また法華堂はお墓のある場所に建てられるべきもののはずです。しかしこの場所に義時の墓とされるやぐらなど存在していません。北条義時法華堂は本当にここなのか疑問が湧いてきます。

実はこの場所からさらに東に北条義時のものとされるやぐらがあります。次回はそれを探しに行きましょう。

              ―鎌倉大仏の謎 その17に続く―

スポンサーサイト



酔石亭主

FC2ブログへようこそ!