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鎌倉大仏の謎 その17

鎌倉大仏の謎
02 /13 2011

今回は義時やぐらを探しに行きます。まずグーグル地図画像を参照ください。


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グーグル地図画像です。

画像で白旗神社の手前を東に進むと、山に入る道が二本あります。この二本の道が並行して石段になるまでの間が、義時法華堂とされる場所ですが、既にご説明しましたように法華堂としては平場が大きすぎます。二本の道が狭まり並行になる地点の左横が三浦一族の墓やぐらです。

島津忠久のやぐらに続く石段の前をそのまま通り過ぎて、山裾に沿って歩きます。すると道は直角に曲がります。曲がる少し手前に、山に入る階段らしきものが見えます。それが義時やぐらに続く道です。

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山に入る階段。

この階段を過ぎて直角に曲がる地点まで進みましょう。見上げると整地されたような土地になっています。

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直角に曲がる地点にて撮影。

そこで試しに画像の上端13と住所表示のある方へ回り込んでみます。

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谷戸のほぼ全景。静かな雰囲気です。

テニスコート奥の左に上がる坂道を登ります。すると最近造成されたと思われる平場に出ます。この平場は直角に曲がる地点の上まで続いています。

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平場の写真。やぐらの痕跡が見られます。

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平場から山側を撮影。

ここにはもう一つやぐらの痕跡があります。ということは山を3m程度削り取ってこの場所を造成したと考えられます。直角に曲がる地点の上に向かいます。途中にコンクリで覆われた二基の石祠が…。祠の横には五輪塔の頭部分が放置されていました。

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石祠の一つです。

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見下ろすと趣のある日本家屋とお庭があります。

その先は小さな広場となって、広場の先は竹藪となって行き止まりの形になっていました。この一帯はかなりやぐらが集積していたものと推定されます。直角に曲がる地点に戻り、その手前の山に上がる階段を登ります。すると…。

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竹藪に入りました。

この竹藪は平場となっています。人の手で造成されたものと思われ、奥行きは4mほどあります。平場からさらに山を登ると…。ありました。義時やぐらです。お隣は北条政子のやぐらとされています。

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義時やぐら。

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北条政子のやぐら、とされています。

寿福寺の裏手、静謐を極めたような墓所に政子の墓があります。お隣には政子の子である実朝の墓もあります。こちらが本来の政子の墓でしょうが、(政子が葬られたのは頼朝が雪の下に建立した勝長寿院とされています)弟の義時と並んでいる写真のやぐらも本物のような気がします。

竹藪の平場に戻り、先ほどの整地された側に数歩進むと、すぐに藪が途切れます。竹藪の向うは先ほどの整地された小広場です。竹藪の平場はそのまま小広場に続いている雰囲気。つまり、かなり横長の平場がここに存在していたことになりそうです。とすると…。

北条義時の法華堂とされる平場と、義時の墓は一定の距離があります。以上から次のような推定が成り立たないでしょうか?

ここの墓やぐらが義時のものであるとすれば、竹藪の平場は小さな法華堂を建てるために造成されたと考えられる。やぐらの場所は「吾妻鏡」に義時の墓は頼朝法華堂東の山上にあるという記述とも整合する。一方、三浦一族の墓の真横にある義時法華堂とされる建物は三浦一族を供養する目的で建てられたものだった。

すると最後に残る疑問、なぜ義時法華堂跡とされるあの平場は不必要なほど広いのかと言う謎―を解明する必要があります。

首をついひねってしまいますが、理由をあれこれ考えてみました。まず、島津重豪が整備した可能性があります。しかし土地造成までしたという記事はありません。だとすれば、鎌倉時代において平場は既に存在していたのでしょう。

ここで、金銅大仏の造立は三浦一族の怨霊を鎮めるためであったと言う説を別の角度から検討してみたいと思います。

安達氏は怨霊を利用してこの機に大仏造立を進めようと考えた、と仮定します。一方、幕府すなわち北条氏も多分、三浦一族の怨霊を鎮めるため大仏を造立すべきと考えたはずです。幕府は取りあえず三浦一族を供養するためのお堂を建立したのではないでしょうか?それが北条義時の法華堂とされる建物跡です。お堂の前庭は多分狭いものだったはず。

次に、幕府の立場に立った場合、大仏はどこに造立されるべきでしょうか?当然墓所のある土地に造立しようとなるはずです。三浦一族の墓がある平場は大仏造立の目的で、鎌倉幕府によって拡張工事が始まります。

しかし幕府の意図を知った安達氏は大反対します。安達氏の考えでは大仏造立の地は深澤里以外にないからです。

三浦氏討伐の最大の功労者である安達氏の反対には幕府も耳を傾けざるを得ません。結果、平場は現在の広さになったまま放置されたのです。反対がなければ拡張工事はさらに続き、より広大な平場となるはずでした。

現在残るこの平場は、幕府が大仏造立の目的で造成し、途中で放棄したものであると推測するのですが、いかがなものでしょう?

             ―鎌倉大仏の謎 その18に続く―
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酔石亭主

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