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呪術都市鎌倉探訪記 その3

呪術都市鎌倉探訪記
02 /20 2011

今回は旗立山を見るのですが、旗立山、矢竹稲荷、兜松関連を総合的に解説した黒御影石の石板がありますので、全文を以下記載します。

永保三年(1083年)、奥州で後三年の役がおこり、その戦に陸奥守兼鎮守府将軍であった八幡太郎義家がここ御霊神社東側の旗立山にて兵を集めました。
当時一六歳であった鎌倉権五郎景正も初陣として参加しましたが、奥州仙北郡金沢の柵の合戦において、敵である鳥海弥三郎の放った矢により右目を射たれました。しかし景正はその矢を引き抜いて射ち返し、みごとに討ち取ったという武勇伝が伝えられています。
戦に勝利した景正は、ここ御霊神社に戦勝のお礼参りに訪れたとき、持ち帰ったその矢を境内に刺しておいたところ、青葉が生えてきました。そこを折笹竹稲荷大明神として奉られています。
また、その時の兜も松の木の根元に勝利の記念として埋めました。その木は後に兜松と呼ばれています。


この解説石板は平成22年6月に建てられたもので、新品同様です。また兜松とは景政(石板は景正ですが酔石亭主は景政で統一します)が兜を埋めたところだったと判明しました。

前九年の役の出陣においては、義家の父である源頼義も、この山に白旗を立て軍勢を集めたそうです。近くには陣出という地名がありますが、この出陣にちなんだものかもしれません。それにしても、一帯は鎌倉の歴史がぎっしり詰まったような場所ですね。

なお、上記とは別に「旗立山の由来」と言う解説石板があります。これには山頂平坦地(平台山)が1200坪ほどある、葛原親王を祀る塚があったとも伝えられるなどと書かれています。石板は平成21年3月に元近衛歩兵第二連隊所属の102歳になる方が寄贈されたとのこと、凄いですね。

では、旗立山に登りましょう、と言ってもちょっと歩くだけですが…。

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山頂平坦地です。

写真では判別しにくいのですが、土塁状になっているように見えます。三段程度の土塁のようです。仏法寺の五合枡遺跡のような砦だったのでしょうか?発掘調査すれば色々な遺物が出てきそうに思えます。いずれにしてもこの平場は鎌倉時代あるいはそれ以前(前九年の役は1056年に始まっている)に造成されたものでしょう。

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もう一枚。

下草は刈り込まれ、小灌木も切られていますので比較的歩きやすくなっています。

旗立山を見終え、兜松の案内板から裏参道を鎌倉古道(上の道)に向けて歩きます。(見取り図を参照してください)

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裏参道と鎌倉古道の合流点。案内板も見えます。

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案内板。

まず見取り図の村岡城址方面へ歩きます。

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鎌倉古道上の道。

上の道と言う呼称が適切かどうか議論もあるようです。数十メートル歩くと民家になって道は切れています。その先はJR東海道線。ほんの短い距離しか古道は残っていないので貴重です。見取り図には奥州に続くルートの一部が書かれています。

村岡城址、慈眼寺、柄沢並木、大台、蔵骨、島の神…、その先は東海道と交差するのでしょう。鎌倉市の地図で位置確認すると、おや?島の神の手前に長者久保がありました。由井の長者染屋太郎大夫時忠の長者久保と同じ地名です。奥州へと続くルート上に時忠関連の地名があるとは驚きです。彼の奥州関連出先機関があった可能性も考えられますね。

裏参道の合流点に戻り、兜松の方角に向かいます。すると…。

道はすぐに舗装道路となり山を下った平坦地左側には民家が並んでいます。それでも鎌倉古道の石柱が立っていますので、さらに進むと左側は工場のフェンスが続いています。

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石柱。

フェンスの中は神戸製鋼藤沢工場の敷地のようです。近くに山があるような雰囲気はまるでありません。多分工場建設の際、整地されて壊されたのでしょう。あきらめて御霊神社に戻るしかないのでしょうか?

              ―呪術都市鎌倉探訪記 その4に続く―
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酔石亭主

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