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呪術都市鎌倉探訪記 その5


新田軍の鎌倉攻めについて「太平記」を読み返しているのですが、どう見ても歴史史料ではなく歴史文学のように思えます。この内容に囚われると混乱しそうなので、あくまで参考程度に止め書いてみます。

新田軍は1333年5月18日卯の刻(早朝6時)に総攻撃を開始します。この時刻に村岡・藤澤・片瀬・腰越など50カ所以上で火の手が上がりました。

70万もの膨大な軍勢を新田義貞はどう振り分けたのでしょうか?実際の人数は大幅に少ないと思われますので、人数にあまりこだわらず考えてみましょう。義貞は鎌倉攻めの軍勢を三方面軍に分けます。彼はどこで軍勢を振り分けたのか?

通常陣を構えるのは寺院で、大部隊を受け入れ可能な場所は藤沢の遊行寺であろうと思われます。

遊行寺で義貞は軍を三方面に分けた―としておきます。その編成は…。
極楽寺坂方面は主将大館宗氏及び副将江田行義で10万騎。
巨福呂坂方面は上将軍堀口貞満及び副将軍大嶋讃岐守で10万騎。
化粧坂方面は新田義貞自身と弟脇屋義助が率いる50万7千騎。
(「太平記」では合計60万7千騎として、その後すぐに上記の人数を記しています。いかに記述が当てにならないかよくわかります)

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幹回り7m以上の大銀杏越しに見た遊行寺です。

なお遊行寺は通称で正式には藤沢山無量光院清浄光寺。

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解説板。

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本堂内には大きな釈迦涅槃図が掛かっていました。

遊行寺は、四代呑海が正中2年(1325年)に俣野領内の廃寺極楽寺を清浄光院として建立したものです。当時は現在より400mほど北に所在していたようですが、後に藤沢四郎太郎に土地を提供され現在地に移転しています。藤沢四郎太郎は元弘3年(1333年)楠木攻めに参戦していますので、鎌倉攻めの際、どちらに寺があったのか微妙に思えます。(一応現在位置としておきましょう)

これを迎え撃つ幕府軍は、
極楽寺坂方面には大将大仏貞直で5万騎。
化粧坂方面には大将金沢左近将監忠時で3万騎。
巨福呂坂方面には執権赤橋守時率いる6万騎。
(「太平記」には巨福呂坂の記載がなく洲崎に向かわせたとあります)
この他に10万騎が備えとして鎌倉の中に待機。

人数は新田軍が圧倒的ですが、幕府方には人数の少なさをカバーする要塞がありました。鎌倉は鎌倉城とも呼ばれ、周囲の山に切岸や土塁などの防御施設を設置、堅固な城塞都市となっていたのです。切通し以外のルートで鎌倉に侵入するのは不可能に近く、新田軍は幕府方の防衛最前線に当たる上記の三つの切通しに殺到したことになります。

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グーグル地図画像。

新田軍と赤橋軍の移動を線で、洲崎の戦の場所を楕円で示しています。非常に大ざっぱなものとご理解ください。

新田軍が集結したであろう遊行寺は、画像の藤沢駅北にある藤嶺学園辺りです。極楽寺坂攻略軍は藤沢駅のほぼ真南に向かい、旧江の島道に沿って片瀬を廻り込み海岸線に出て稲村ケ崎に到達するルートを取ることになります。(茅ヶ崎の十間坂でも火の手が上がったとの記述があるので、西から参加した部隊もあったのでしょう)

極楽寺坂攻略軍は一番距離の長いルートを進軍するのですが、大館宗氏は5月18日中に鎌倉の前浜に少人数で侵入、稲瀬川で敵方に討ち取られます。これを知った義貞は手勢2万を率い化粧坂から稲村ケ崎に進出、聖福寺に陣を構えました。以降の展開は「新田義貞鎌倉攻めの謎を解く」で書いています。

一方今回の主役赤橋守時は巨福呂坂防衛軍を指揮しています。画像では建長寺と鶴岡八幡宮の中間です。彼は守備兵力の半分に当たる3万騎を率いて巨福呂坂から出撃、洲崎に向かいます。(「太平記」では数万騎と記載されています)

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現在の巨福呂坂です。旧巨福呂坂は鶴岡八幡宮の西脇から谷戸に入ります。


大きな地図で見る
旧巨福呂坂を示すグーグル地図画像。21号線マークで分岐している道です。

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旧巨福呂坂への道です。石段は青梅聖天社へと続くものです。

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青梅聖天社です。

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青梅聖天社解説板。

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さらに坂道を登ると小道となりその先は竹藪となって、断崖で途切れています。

「太平記」によれば、合戦は5月18日巳の刻(午前10時)より始まりました。続いて、「赤橋相模守自害事」の記事となります。

洲崎に出撃した赤橋守時は、化粧坂へ向かう新田義貞を背後から突こうとしたのでは、と推測します。軍勢は円覚寺の横を抜け富士見町辺りに出て、深沢方面に向かいます。(「太平記」には進撃ルートの記載はありません)

新田軍の主力である化粧坂攻略軍は遊行寺を出て、村岡を抜け、柏尾川を渡ります。藤沢病院の院の字辺りが御霊神社の裏にある鎌倉古道ですので、ここを通過したのでしょう。そして、地図には出ていませんが梶原から日野基俊の墓近辺より化粧坂に至るルートを進軍したものと思われます。

堀口貞満率いる巨福呂坂攻略軍は化粧坂攻略軍と同一ルートで深沢まで進み、そこで新田軍と別れ富士見町方面に向けて進撃します。ただこの場合、非常に軍勢が込み合いますので、巨福呂坂攻略軍全軍あるいはその一部が笠間方面から大船、富士見町に進んだ可能性もあります。いずれにしても、堀口貞光の軍勢と赤橋守時の軍勢が会合するのは富士見町辺りと思われます。

死に物狂いの赤橋勢は、化粧坂に向かう新田義貞を追い、堀口勢と戦いながら深沢まで進出したのでしょう。ここにおいて赤橋守時は、堀口勢のみならず新田軍の主力とも戦うことになるはずです。守時はわずか3万の兵力で、極楽寺攻略軍を除く新田軍のほぼ全軍と深沢の地で壮絶な死闘を繰り広げたのです。

65度の切り合いの末、赤橋守時は洲崎(画像ではモノレール湘南深沢駅辺り)にて自害します。ちなみにWikipediaは以下のように説明しています。

元弘3年5月18日、一門から裏切り呼ばわりされるのを払拭するため新田義貞率いる倒幕軍を迎え撃つ先鋒隊として出撃、鎌倉中心部への交通の要衝・巨福呂坂に拠り新田勢と激戦を繰り広げるが、最期は衆寡敵せず洲崎(現在の神奈川県鎌倉市深沢地域周辺)で自刃する。享年39。


これを読む限りでは、守時の動きがはっきりせず曖昧です。文面からは、まず巨福呂坂で戦い、その後洲崎に向けて出撃したことになります。けれども、狭い山ノ内の谷戸で両軍が激突していれば、人数に劣る守時は洲崎に進出できないと思われます。

そこで、富士見町辺りから戦端が開かれたのでは、と推測しました。理由は、ある程度開けた富士見町近辺なら縦深陣形で突っ込み敵陣を一時的に突破することも可能だからです。

「太平記」には、18日の晩ほどに洲崎が最初に破れて、義貞の官軍は山内まで入った、と記されていますので、洲崎の戦いの後に堀口軍が巨福呂坂へ殺到したと考えられます。

なお、守時が一門から裏切り者呼ばわりされそうな事情は以下の通りです。

守時は自分の妹が足利高氏の妻となっており、北条高時から敵方に付くのではと疑われていました。このため守時は、この戦において死ぬ覚悟で出陣したとされています。実際、激しい戦闘の末に軍勢が3百騎にまで減った守時は、人々の疑いの眼に晒されて生きながらえることができようかと言い残し、腹を切って果てたのです。一族郎党90人もこのとき自害しました。つまり死ぬために赤橋守時は出陣した、というのが通説となっています。

しかし平地での戦闘は人数が少ない方が圧倒的に不利。巨福呂坂で堅固な防御陣を張り、そこで戦って死ぬのが本筋ではないかと思うのですが…。まあ、この間の事情は本人以外わかりませんので、追及は不可能です。

そして、洲崎の戦いで命を落とした両軍戦死者供養のために建てられたのが、鎌倉有数の心霊スポットとされる泣塔です。

           ―呪術都市鎌倉探訪記 その6に続く―


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