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呪術都市鎌倉探訪記 その13

呪術都市鎌倉探訪記
03 /10 2011

鎌倉幕府は幕府所在地の四隅と鎌倉の境界を結界とし、災厄からの防御を図りました。しかし、そうした重要儀式を執行できる優れた陰陽師は草深い東国にはおりません。

幕府は京都から安倍晴明を祖とする安倍一族の陰陽師を招きます。「吾妻鏡」を読むと彼らが執行した儀式の記述が多数出てきます。代表的な記事を以下ピックアップしてみましょう。

元仁元年(1224年)十二月小廿六日戊午。此間。疫癘流布。武州殊令驚給之處。被行四角四境鬼氣祭。可治對之由。陰陽權助國道申行之。謂四境者。東六浦。南小壷。西稲村。北山内云々。

この記事には、疫病が流行して[四角四境鬼気祭]が執行されたと書かれています。(その8でも記載していますので参照ください)四境とは鎌倉の境を成す地を意味しており、東が六浦、南が小坪、西が稲村、北が山内となっています。

山内は現在の山ノ内を意味し、神奈川県神社庁ホームページには、元仁元年(1224年)12月鎌倉四境の北境に当たる「山ノ内」で疫病祓いの鬼気祭が斎行された―とあります。祭が執行されたのは八雲神社で、晴明石もここに置かれています。

四角四境鬼気祭は安倍晴明の子孫が独占した宮中における厄病払いの儀式です。天皇家あるいは摂関家のみが実施できた祭祀を、鎌倉幕府が取り込んでしまった訳です。

ただこれらの祭祀は頼朝の時代には執行されていません。とてもそんな余裕はなかったのでしょう。京都から安倍泰貞などの陰陽師を招いて様々な祭祀が執行されるようになったのは、実朝以降です。

鎌倉における四角四境鬼気祭は幕府所在地の四隅の災厄を祓い、鎌倉四境の災厄を祓う祭祀と言えます。本来は天皇個人を鬼神の災厄から守るという祭祀が変化したものですね。なお上記の記事では[四角]についての説明がないので、別の記事を参照しましょう。

嘉禎元年(1235年)十二月大廿日戊申。爲御不例御祈。於御所南庭。被行七座泰山府君祭。忠尚。親職。晴賢。資俊。廣資。國継。泰宗等奉仕之。及黄昏。被行四角四境祭。御所艮角〔陰陽大允晴茂〕、巽角〔圖書助晴秀〕、坤角〔右京權亮經昌〕、乾角〔雅樂助貞〕、小袋坂〔雅樂大夫泰房〕、小壷〔近江大夫親貞〕、六浦〔陰陽小允以平〕、固瀬河〔縫殿助久方〕。

最初に七座泰山府君祭が執行され、次に四角四境祭が行われたとあります。ずいぶん忙しいスケジュールですが、何か事情でもあったのでしょうか?

この記事では四角に関して説明が加えられています。四角は艮(ごん=うしとら、東北)、巽(そん=たつみ、東南)、坤(こん=ひつじさる、西南)、乾(けん=いぬい、北西)を意味し、この四隅にて儀式が執行されたことになります。四角四境の儀式で鬼気が確認されると、紙などで形代(かたしろ)を作り幕府の外に棄却して、災厄を払いました。

上記の記事で2点気になるものがあります。まず、1224年の四角四境鬼気祭は東が六浦、南が小坪、西が稲村、北が山内だったのに、1235年は西が片瀬、北が小袋坂に変わっている点です。この変化を線で示し確認します。

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電子国土画像。

変化を線で示しました。なぜ境界はこのように変化したのでしょう?

北条泰時は、嘉禄元年(1225年)に尼将軍北条政子が亡くなって後、下の画像[1]の大倉幕府を宇津宮辻子に移転させます(宇津宮辻子幕府)。それから11年後の嘉禎2年(1236年)今度は若宮大路に移転しました(若宮幕府)。四境の場所が変わったのはそれが影響しているものと推測されます。

画像を見ると、幕府の所在位置がほぼ中心に来るように北の境を変えているように見えます。

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幕府所在位置を示す電子国土画像。[1]が大倉幕府、[2]が宇津宮辻子幕府、[3]は若宮幕府。

1224年段階では[1]の大倉幕府で北の境は山内(八雲神社境内)だったものが、1235年段階では幕府が南に下がり[2]の宇津宮辻子幕府となったので、北境を山内から南の小袋坂まで下げたように見えるのです。ここであれっ?と思いました。

小袋坂は巨福呂坂のことで、切通しの北鎌倉側の坂には第六天社があり安倍晴明の石碑が置かれています。だとすれば、この石碑は宇津宮辻子幕府における北の境界を示しているとも推定できます。

するとさらに連想が働きます。[3]の若宮幕府は宇津宮辻子幕府の北に移転しています。これにより若宮幕府における北の境界は第六天社よりも北に、しかし八雲神社よりは南に移動するはず。その場所とは…。

JR横須賀線踏切脇にある安倍晴明の石碑ではないでしょうか?この石碑は若宮幕府に移転した後の鎌倉の北境を示している。確信はありませんが、そう考えると合理的に解釈できそうに思えます。

陰陽道において北極星は北辰と呼ばれ、陰陽道の最高神である泰山府君とも同一視されています。また鎮宅霊符は北斗七星などを祀るものでした。[北]はこれら北斗七星や北極星などに代表されるように、陰陽道にとって最も重要な方位であったのです。だから鎌倉幕府が移転する毎に北の境を変えたと推測されるのです。

以上より、八雲神社、JR踏切脇、第六天社にある安倍晴明の石・石碑は、鎌倉の各幕府所在地における、陰陽道の観点から見た北の境界を示すものであったと理解できます。答えを保留していたJR横須賀線の脇に晴明の石碑がある理由。それは、若宮幕府の北の境界を示すために置かれたものだったのです。鎌倉にとっての北鎌倉の重要性がはっきりと見えてきました。

一方鎌倉の南の境は小坪ですが、実際には名越切通しのある名越であろうと思われます。この地名も陰陽道にちなんでいると推測されるからです。名越は夏越で、陰陽道の夏越大祓と関連しています。以下Wikipediaより引用します。

大祓(おおはらえ)は、6月と12月の晦日(新暦では6月30日と12月31日)に行われる除災行事である。犯した罪や穢れを除き去るための祓えの行事で、6月の大祓を夏越の祓(なごしのはらえ)、12月の大祓を年越の祓(としこしのはらえ)という。6月の大祓は夏越神事、六月祓とも呼んでいる。なお、「夏越」は「名越」とも標記する。輪くぐり祭とも呼ばれる。
夏越の祓では多くの神社で「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」が行われる。これは、氏子が茅草で作られた輪の中を左まわり、右まわり、左まわりと八の字に三回通って穢れを祓うものである。『釈日本紀』(卜部兼方 鎌倉時代中期)に引用された『備後国風土記』逸文にある「蘇民将来」神話では茅の輪を腰につけて災厄から免れたとされ、茅の旺盛な生命力が神秘的な除災の力を有すると考えられてきた。


なお、蘇民将来は牛頭天王に関係するものです。これで名越の地名由来が確定しました。鎌倉の南境において大祓の儀式が執行され、それが夏越の地名になり名越に転化したものだったのです。

以前ご紹介しましたが、名越には正体不明の巨大な石塔が二基あります。この謎の石塔は上記からして安倍氏系の陰陽師のもので、南境を護るために置かれたものと推測されます。

では西境はどうでしょう?西が稲村から片瀬に変わったのは、鎌倉の西の境界が広がったためと理解して良さそうです。稲村は金山の白山神社が該当するかと思いましたが、実際には鎌倉権五郎景政を祀る坂ノ下の御霊神社が該当するような気がします。

ここには彼が手玉にとって袂に入れたという、袂石や手玉石があります。また境内社である石上神社の背後には巨石が置かれています。この巨石は昔、坂ノ下沖の海中にあり、舟が岩に衝突してしばしば沈没しました。困った村人たちはあれこれ相談し、岩を割って引き上げることにしたそうです。それが石上神社背後に石神として祀られた巨石です。西の境界とするにふさわしい置き石のように思えます。

片瀬の場合は、五頭竜を祀る龍口明神社がふさわしそうです。東の六浦に関してはなじみがなくいずれ調べてみたいと思っています。

以上からして安倍晴明の石碑は、北の境を結界とするため、彼の子孫の誰かが建てたものと推測されます。例えば、安倍泰貞などです。晴明自身の痕跡は彼の屋敷周辺に限られそうですが、実際に東国まで足を伸ばしたのか確証はありません。確実なことは鎌倉幕府における陰陽道の祭祀は安倍晴明の子孫が主に担ったと言う点のみです。

いずれにせよ、関東の一大観光都市鎌倉は幕府及び鎌倉の境界を二重に結界とした呪術都市であったのです。

もう一つ気になるのが1235年の記事に出てきた陰陽道の最高神を祀る泰山府君祭です。

           ―呪術都市鎌倉探訪記 その14に続く―

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酔石亭主

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