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呪術都市鎌倉探訪記 その14

呪術都市鎌倉探訪記
03 /13 2011

今回は泰山府君祭を見ていきましょう。

泰山府君祭は陰陽道の最高神・泰山府君を祀る儀式で延命や長寿のみならず、死んだ人間をも生き返らせるとされ、安倍晴明のような超一流の陰陽師だけが執行します。

それほど大仰な儀式が、「吾妻鏡」にざっと目を通して見ると、仁治2年7月に3回も執行されていました。

仁治2年(1241年)七月小五日辛夘。於前武州亭。被行七座泰山府君祭。依御不例也。
仁治2年(1241年)七月小八日甲午。於御所。被行七座泰山府君祭。定昌。泰貞。晴賢。資俊。國継。廣資。以平等奉仕之。
仁治2年(1241年)七月小廿七日癸丑。今夕。定昌朝臣奉仕如法泰山府君祭。是又將軍家御祈也。


前武州亭(北条泰時の館)や御所(幕府)などにおいて執行されています。これには何か特別な事情があったのでしょうか?この年のそれ以前の記事を拾ってみました。

仁治二年(1241年)二月大四日壬戌。晴陰。戌尅。白赤氣三條出現。件變消。其東傍赤氣又出現。長七尺。彼變減。猶西傍赤氣一條出現四尺歟。觀者恠之。泰貞朝臣最前馳參御所。申云。此變爲彗形。異名火柱也。
仁治二年二月大七日乙丑。巳尅大地震
仁治二年二月大十六日甲戌。天變事。依仰。前武州召聚天文道之輩。令尋問給。
仁治二年四月小三日辛酉。霽。戌尅大地震。南風。由比浦大鳥居内拝殿被引潮流失。着岸船十餘艘破損
仁治二年四月小廿七日乙酉。爲天變地妖御祈。於御所巽角。被行天地災變之祭泰貞朝臣奉仕之。將軍家出御其庭云々。
仁治二年六月大九日乙丑。炎旱渉旬之間。鶴岡別當僧都定親承仰。於江嶋修祈雨法


2月に白赤氣三條出現とあります。赤気は低緯度で発生するオーロラのことですが、その後すぐに大地震が発生していますので、地震の前触れとなる発光現象の可能性が高そうです。

泰貞が御所に馳せ参じたと書かれていますが。安倍泰貞のことで京都から招かれた安倍氏系の陰陽師です。天変地異は鎌倉時代頻繁に起きていますし、それに対応する儀式(天地災變之祭)も4月27日行われています。6月の干ばつには江ノ島で雨乞いが修されました。

天変地異に対する儀式はそれぞれ執行されているようなので、7月に連続して執行された泰山府君祭の意味がわかりません。

北条泰時は翌年の1242年6月に死去していますので、この頃すでに体調がかなり悪化していたのではと推測されます。暑いさなか泰時の延命・長寿を祈願して祭が数次に亘り執行されたと言うのが唯一の考えられる理由です。

次に陰陽道においては代表的な儀式である天曹地府祭を見ていきます。天曹は天の星(天の神々)で地府は地上と冥界の神々ですから、要は天地万物を意味しています。陰陽道における天曹地府祭は、万物の加護を得て天皇の即位を祝う祭祀で、天皇一代に一度だけの儀式だったのです。ところが「吾妻鏡」にはこの祭りが連続して執行されています。

建暦三年(1213)三月大十日辛亥。晴。戌尅。故右大將家法花堂後山有光物。長一丈許。照遠近暫不消云々。
建暦三年(1213)三月大十六日丁巳。霽。依天變事。於御所被行御祈等。不動供隆宣法橋。天曹地府祭。大夫泰貞於南庭行之。橘三藏人惟廣爲御使。向其所云々。
建暦三年(1213)四月小廿八日己卯。雨降。入夜。相州參御所給。召廣元朝臣等有被仰合事。又爲御祈祷。…中略…天曹地府祭泰貞。属星祭宣賢等奉之。則以廣元朝臣奉書。被觸仰之。山城判官次郎基行。橘三藏人惟廣。宮内兵衛尉公氏等爲御使云々。


光物が飛んだ程度で天曹地府祭りを執行するのも変ですが、この時期鎌倉には不穏な空気が流れていました。和田の乱の発端が2月で、5月には鎌倉中が大騒動になります。そうしたさ中、安倍泰貞により天曹地府祭が執行されたとすれば、鎌倉の平安を祈願したと考えるのが適当でしょう。これらの祭は、戦乱だけでなく地震や火災、台風などに対しても執行されています。

貞應二年(1223年)九月大十日己酉。被始天變御祈祷等。所謂。
愛染王護摩     弁僧正定豪
藥師護摩      大進僧都觀基
尊星王護摩     内大臣僧都親慶
北斗護摩      信濃法眼道禪
七曜供        助法眼珎譽
属星祭        晴賢
月曜祭        親職
歳星祭        知輔
太白星祭       忠業
天曹地府祭     泰貞
七座泰山府君祭 晴幸 信賢 重宗〔右京亮〕文元 道寛 重宗〔陰陽大夫〕家秀


上記は、天変地異に対して陰陽道最高の秘儀である天曹地府祭と七座泰山府君祭がともに執行されていることを示しています。ただこの前の記事を見ても大した異変は起きていません。9月26日に大地震とありますから、効能あらたかではなかったことになります。

ともあれ、「吾妻鏡」を読むとこれら重要祭祀のみならず、様々な儀式が執行されていました。正しく鎌倉は呪術都市だったのです。

呪術都市鎌倉探訪記は以上で終わりです。安倍晴明の石碑や晴明石に関して独自の見解を提示できたので、取り組む意味があったと思っています。問題は、鎌倉において追及すべき謎が乏しくなってきたことです。ちょっと困りましたね。

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酔石亭主

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