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八雲神社例大祭の謎 その2

鎌倉の謎を解く
03 /27 2011

前回で、北野神社の神様がなぜ女神なのかわからなくなってしまいました。大変悩ましいのですが、悩んでいても始まらないので、神社境内に入りましょう。

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鳥居です。裏側に天保4年(1833年)と彫られています。

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神社への石段。山林も含めよく整備されています。

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途中に横穴が…。

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横穴内部。

一帯は縄文から弥生時代にかけての住居跡が多数見られたとのことです。これもその一つでしょうか?

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平場です。

天神山自体が砦だったとされていますので、この平場も防御施設の一部だったのかもしれません。石段はまだまだ続きます。山頂近くなってようやく北野神社に至りました。

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神社拝殿です。

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手水用の水盤があります。天神様の神紋である梅花紋が刻まれていました。

北野神社は天神社であり菅原道真を祀るのですが、北野天神の本地は十一面観音とされています。本地垂迹に関しては以下Wikipediaより引用します。

本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に表れた神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。


つまり天神は十一面観音が別の姿で現れたものとされているのです。そして観音は、しばしば女性と考えられています。ようやく女性の要素に繋がってきました。十一面観音の像容に関して以下Wikipediaより引用します。

十一面観音はその深い慈悲により衆生から一切の苦しみを抜き去る功徳を施す菩薩であるとされ、女神のような容姿に造られたものが多い。


しかし、牛頭天王の本地は薬師如来で女性ではありません。この辺はどうにも整理し難いものがあります。

拝殿脇には巨大な解説石板があります。高すぎて写真も撮りにくいのですが、何とか撮影しました。

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解説石板。

石板には明治35年(1902年)3月25日と刻まれています。菅原道真が死去したのは延喜3年2月25日(=903年3月26日)ですから、没後千年を記念して建てられたことになります。

大きな石板の割には詳しい御由緒が書かれていませんでした。ただ、夢窓国師(疎石)が宝積寺を建てたとも書かれています。どこかで聞いたことのある名前だと思い早速Wikipediaで調べてみました。すると…。

宝積寺(ほうしゃくじ)は、京都府乙訓郡大山崎町の天王山中腹にある真言宗智山派の仏教寺院。山号は天王山または銭原山(古くは補陀洛山といった)、本尊は十一面観音である。724年、聖武天皇の勅命を受けた行基による開基と伝える。

何と、本来の宝積寺は行基が開基したお寺でした。しかも本尊は十一面観音。北野天神の本地と同じです。天王山は光秀と秀吉が雌雄を決した場所。重要な試合などで「天下分け目の天王山」などと表現されています。また大山崎はサントリーの工場があることでも有名です。

とすると…、鎌倉のこの地が山崎とされるのは、夢窓疎石が大山崎の宝積寺を勧請したことによるのでしょう。思わぬところで、山崎の地名由来が明らかとなりました。解説石板によれば、宝積寺の創建は暦応年間とのことで、1338~1342年頃となります。天王山に関しては以下Wikipediaより引用します。

天王山(てんのうざん)は、京都府乙訓郡大山崎町の山。 西側の山腹を、摂津国(現在の大阪府)と山城国(現在の京都府)の国境がよぎる。
山名は、中腹に牛頭天王を祀る山崎天王社(現 自玉手祭来酒解神社)があることに由来する。



大きな地図で見る
天王山(上端部)と宝積寺(サントリーのすぐ西側)の位置関係を示すグーグル地図画像。

つまり京都大山崎においては、宝積寺の十一面観音と山崎天王社の牛頭天王が重なっているのです。同様に、鎌倉山崎の北野神社(山崎天神社)にはその本地である十一面観音と牛頭天王が重なっていました。

鎌倉山崎における北野神社成立には、以下のような経緯があったものと見られます。

天王山の中腹には、橘氏の氏神を祀る乙訓で最も古い酒解神社(自玉手祭来酒解神社=たまてよりまつりきたるさかとけじんじゃ)が鎮座していた。そこに行基が宝積寺を建立。十一面観音が本尊となった。時期は不明だが(多分平安末期頃)、素戔鳴尊などが祀られ、山崎天王社と称されるようになった。(注:大山崎における神社はやや複雑な推移を辿っており、現地訪問していない酔石亭主では理解しえない部分が多々あります)

次に夢窓疎石が京都北野神社を鎌倉に勧請し山崎天神社となった。天神の本地は十一面観音なので、同時に大山崎の宝積寺を勧請し、ついでに山崎の地名も持ち込んだ。疎石の仕事はそこまでだが、京都大山崎と鎌倉山崎を対比させた場合、牛頭天王が欠けている。そこで神託が下り岩瀬から牛頭天王を勧請、京都大山崎と鎌倉山崎の対比が完成形となった。


これにより北野神社の牛頭天王は女性の神格(仏格?)を併せ持ち、よって八雲神社の牛頭天王との神婚が可能になったと推測するのですが、いかがなものでしょう?その推測が正しければ、神仏混淆の極致です。八雲神社の神輿がお寺で読経を受けるのは、神と仏の融合のためかもしれません。

夢窓疎石が創建した宝積寺は廃寺となっています。寺はどこにあったのでしょうか?当然天神山の麓にあるはずです。北野神社の石段を下り、道路を山崎交差点に向かって歩きます。

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山崎交差点。

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交差点手前から見た天神山。

この辺りはちょっとした谷戸地形となっています。多分写真に映っている位置にお寺があったのでしょう。

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電子国土画像。

湘南モノレールのレの字辺りが宝積寺跡と推測します。

そう言えば、拝殿脇に宝篋印塔がありました。この塔は応永12 年(1405年)の銘があり鎌倉市重要文化財に指定されています。

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宝篋印塔です。建てたのは宝積寺の僧教音だとか。

宝積寺には十一面観音像が本地仏として安置されていましたが、現在はお近くの昌清院(円覚寺塔頭)に移されています。

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昌清院です。中に入れる雰囲気ではありませんでした。

次回は神社が鎮座している天神山について少し書きます。
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酔石亭主

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