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関東平氏の鎌倉 その7

関東平氏の鎌倉
05 /16 2011

今日は後三年の役で鎌倉に凱旋した後の景政と、彼の子孫たちを見ていきましょう。景政は長治年間(1104年 - 1106年)に相模国高座郡大庭一帯を開拓して、永久4年(1116年)頃伊勢神宮に寄進したそうです。このため一帯は大庭御厨と呼ばれました。大庭御厨に関しては以下Wikipediaより引用します。

大庭御厨(おおばみくりや)は、相模国高座郡の南部(現在の茅ヶ崎市、藤沢市)にあった、寄進型荘園の一つ。鎌倉時代末期には13の郷が存在した相模国最大の御厨(伊勢神宮領)である。大庭御厨は鎌倉景政によって開発された。伊勢神宮に寄進されたが、源義朝の乱入を防ぐことは出来なかった。大庭氏は保元の乱以降、源氏の配下となった。大庭氏は和田合戦で滅亡したが、大庭御厨は三浦氏や北条得宗家の所領として存続した。


景政の子孫に関東平氏五家の一つ大庭氏があり、大庭城に拠って一帯を支配しました。以下は系図ですがこれも諸説あり一定しません。

良文―忠光―忠通―景成―景政―景経―景忠―景義、景親、景久

景忠は大庭氏の祖になります。景義と景親は大庭御厨に乱入した源義朝と従属関係を持ちますが、治承4年(1180年)に頼朝が挙兵すると、景親は鎌倉党として頼朝追討の軍を指揮、頼朝を石橋山の合戦で破ります。一方景義は頼朝に与します。景親は後に頼朝に敗れ処刑されるのですが、景義の子孫が御家人として生き残りました。

全く関係ないのですが、大相撲の決まり手の一つ「河津かけ」は、仇討ちで知られる曽我兄弟の父河津祐泰が景久を投げた技だそうです。

いずれにせよ、大庭一族はそれぞれが生き残り作戦を展開していたのですね。しかしその甲斐もなく、北条氏の時代になると大庭氏はほぼ消滅してしまいます。また鎌倉党(鎌倉氏、梶原氏、長尾氏、大庭氏、俣野氏)も梶原氏を除き頼朝の時代に衰退あるいは消滅しました。(梶原景時は頼朝が死ぬと討ち取られます)

では景政が開拓し、その子孫である大庭氏が城を築いた大庭城址に行ってみましょう。


大きな地図で見る
グーグル画像。

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引地川越しに見た大庭城址全景。

大庭城址公園へは正面入り口ではなく、湘南ライフタウンの入口付近から登り始めます。画像では、舟地蔵と書かれた辺り。

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案内板。

大庭は山あり川ありで、川に沿って海にも出られるため古代人には棲みやすい場所だったようです。

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解説石板。

大庭景親の居城と云ふ 後上杉定正修めて居城せしか 永正九年子朝長の時北条早雲に攻落され是れより北条氏の持城となった云々とあります。随分変転があったのですね。

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大庭城址と彫られた巨石。

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城址は広々とした公園になっています。

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空堀跡。城の遺構として残っています。

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掘立柱建物址

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解説板。

相模国を駆け巡った鎌倉権五郎景政は、大治5年(1130年)57歳で死去します。最後の場所は鎌倉の甘縄だったとか…。

              ―関東平氏の鎌倉 その8に続く―

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酔石亭主

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