鎌倉・藤沢の義経伝説 その4


今日は義経の腰越状を見ていきます。

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腰越状。不鮮明なのは致し方ありません。

弁慶による下書きとされています。弁慶が実際に書いたものかどうかはさて置き、義経が「腰越状」を満福寺にてしたためたのは、文治元年(1185年)5月24日のことでした。宛先は頼朝ではなく当時公文所の別当であった大江広元で、自分の立場・心情を綴る手紙を彼に託したのです。
かなり長文なので内容を以下纏めてみました。

私は兄の名代として朝敵を滅ぼし、功を上げました。罪はないのにも係わらず讒言(梶原景時の讒言)により勘気を被り悲嘆の涙にくれています。
長く拝顔できないのは自分の運が尽きたのでしょうか、あるいは前世の悪業のためでしょうか。
私は父が亡くなり孤児になって心安らぐときは一日たりともなく、諸国を流浪し土民百姓に召し使われました。(実際は土民百姓が義経に仕えたと言う意味のようです)
しかし、機が熟して幸運が巡ってきたので、木曽義仲を倒し平家を滅ぼすため命も省みずに戦いました。
それが今は仏神にすがるしか訴えを聞いて頂くすべがなく、牛王宝印の裏を用いて起請文を書き送りました。なのに、お許しはありません。
何卒便宜を図って兄のお耳に入れて頂きお許しが頂けるようお願いします。


義経は一の谷の合戦、屋島の戦いで勝利し、遂には壇の浦で平家を滅亡へと追い込みます。ところが軍目付けであった梶原景時は、義経に不義があったと頼朝に讒言します。義経は忠節を誓う起請文を頼朝に送るのですが、無視されてしまいました。

それ以前にも対立の芽はありました。義経は頼朝に相談することなく後白河法皇から左衛門少尉検非違使に任じられ、怒りを買っていたのです。頼朝から見れば朝廷に接近する義経は自分の支配権を危うくする存在に見えたのでしょう。後白河法皇からすれば、頼朝に対する牽制が必要だったので、義経に平家滅亡後の領地を支配する許しまで出したのです。

つまり政治的駆け引きや配慮に欠け、頼朝の考え、後白河法皇の意図を見抜けず、両者に翻弄された揚句自害に追い込まれたのが義経だったという構図になるのですが…。

頼朝は義経よりずっと高い位に就いており、また後白河法皇から左衛門少尉検非違使に任じられたのは、頼朝から京都警護を命ぜられた背景があってのことです。法皇に頼朝を牽制する意図はないようにも思えます。(頼朝の覚えめでたい梶原景時も、義経同様勝手に法皇から任じられています)だとすれば、頼朝の意図はどこにあったのでしょう?

義経のバックには奥州平泉の藤原秀衡が控え、京都においては後白河法皇の信任を得ていました。鎌倉にいる頼朝から義経はどう見えたのか。義経は戦上手で人望もあり、自分を東西から挟み撃ちにできる危険人物、そう見えたのではないでしょうか?

危険の芽は早いうちに摘むべし。幾多の危機を乗り切ってきた頼朝の中にそうした気分が醸成されていったのは当然のことです。義経は頼朝の危惧を察知して、兄弟の情に訴える手紙をしたためました。極めて内容が情緒的になっているのは相手の情に訴える戦略だったからです。

でも、空気を読む時点があまりに遅すぎました。「神仏に誓って他意はない。話せばわかるから鎌倉に入れてくれ」と言う義経の叫びは無視され、願いは遂に叶わなかったのです。

それどころか頼朝は、義経が得ていた平家の土地を没収します。さらに頼朝は自ら義経討伐に乗り出したのです。哀れ義経は九州へ向かおうと、摂津国大物浦から船に乗りますが、暴風により船は難破してしまいます。何とも不運ですね。

遭難した義経は吉野の山中へと逃げ、吉水院に入ります。静はこの間常に義経と行動を共にしていました。テレビでしか見ていないのですが、吉水院には「義経潜居の間」や「弁慶思案の間」が残されています。

こうして吉野まで逃げた義経ですが、頼朝の手は吉野にも及びます。ちなみに吉野は、日本の謎解きでも書いた大海人皇子(後の天武天皇)が隠遁し、後醍醐天皇が南朝を開き吉水院を最初の皇居とした聖地です。ここはなぜか特殊技能民の拠点となっており、後醍醐天皇に仕えた人物では秦武文がいます。

義経は吉野で静と別れ、奥州へと逃避行を続けます。義経と静のラブロマンスは、吉野において最終章を迎えたのです。この地で捕縛された静は、翌1186年4月頼朝から鶴岡八幡宮での舞を命じられました。「その1」にて書いた有名な場面ですね。

頼朝は義経を亡きものにすべく様々な手を打ちます。頼朝の圧迫に耐え切れなくなった藤原泰衡は、文治5年(1189年)閏四月三十日、衣川に義経を攻め、もはやこれまでと悟った義経は妻子と共に自害して果てたのです。

泰衡はその後、ぶざまにも頼朝に命乞いをしてあっさり断られ、挙句の果てに家来に殺されてしまいます。もしこの時点で秀衡が生きていれば、そして義経を前面に立てて頼朝に対抗すれば、奥州藤原氏は簡単に滅亡などしなかったでしょう。いや泰衡がもっと毅然としてさえいれば、義経の運命はまた異なったものになったはずです。

            ―鎌倉・藤沢の義経伝説 その5に続く―

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