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鎌倉・藤沢の義経伝説 その1


義経の伝説で最も有名なものは義経=ジンギスカン説です。この説によると、義経は衣川の戦いで自害せず生き延び、蝦夷(北海道)に渡って後、樺太経由大陸へ向かいます。大陸を西へと進んだ義経は、モンゴルに入ってモンゴル帝国を創始。英雄ジンギスカンになったとされています。

ジンギスカンの生年は1155年から1162年までの間で、没年は1227年8月12日。一方源義経の生没年は1159年~1189年ですから年代的・年齢的には上記の説が成り立ち得ると言えます。

しかしこれはあくまで歴史ロマン。実際にはあり得ない話だとしておきましょう。なぜって、もし義経がジンギスカンになったならこれ以降の記事がほとんど成り立たなくなるからです。とまあ、全くの自己都合で義経=ジンギスカン説を否定しましたが、この説の根拠を何点か見ていきます。

義経は閏4月30日に衣川で自害しました。けれども、彼の首が腰越に届くのは6月13日とされています。死後43日も経過すれば、首は腐敗して誰のものかわからない、よって偽首であるとの説がここから生じます。でも、平泉には有名な藤原氏四代のミイラ(四代泰衡は首のみ)があり、最初にミイラとなった清衡の没年は大治3年(1128年)でした。

つまり、当時の平泉には遺体の防腐処理技術が既に存在していたと考えられます。義経の首は酒に漬けて運ばれたとされますが、実際は違っていたのかもしれません。本物の首が腐敗せずに腰越まで届いた可能性を否定できないのです。

また「鎌倉大日記」によると、首は5月13日に鎌倉に届いたとされます。(頼朝は母の法要のため首を途中で止めておくよう指示しており、やはり6月13日が正しそうです)

奥州藤原氏は十三湊を拠点として北宋との交易があり、東北から海外へ出るルートは存在していたとされます。しかしルートが存在することと、実際に行ったかどうかは全く別の話です。

義経の死後鎌倉において義経の軍勢が攻めてくるとの噂が立ち、鎌倉が動揺しました。その理由は、義経が死んでいないのを鎌倉が知っていたからだ、との意見があります。これは中国のことわざを借りれば「死せる孔明生ける仲達を走らす」の類と思われます。

以上より義経=ジンギスカン説は否定してもいいでしょう。と簡単に結論を出したのですが…。

いわゆる義経北行伝説の東北部分は平泉から遠野・宮古・久慈・八戸・青森・三厩・竜飛とルートがきちんと辿れる形になっています。特に宮古には多くの遺跡・伝承地が残っています。

ところが北海道に行くと、地域が分散して筋道が立たなくなります。東北・北海道の北行伝説にさらに尾ひれがついたのが義経=ジンギスカン説となります。

つまり義経の伝説には3段階あると見られ、それぞれの時代背景によって上記のような伝説が生み出されたと考えられるのです。また、義経北行伝説には、偽書とされるものも含め様々な資料・伝承があって、眉つばもある一方、なるほどと思わせる部分も少なくありません。

従い、義経が衣川で自害せず東北地方の奥地へ逃げて行った可能性はあると思われます。ただ、酔石亭主はこの問題を現地調査により追及する能力などないし、深入りすると収拾がつかなく恐れもあります。(伝承地の一部は大震災で被災しています)

なので、一応北行伝説はなかったとの立場で進めていきます。(義経北行伝説でネット検索いただければ、文献や伝承地など詳しい内容を知ることができますので、ご参照ください)

義経の略歴に関しては以下Wikipediaより引用します。

河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に奥州平泉へ下り、奥州藤原氏の当主藤原秀衡の庇護を受ける。兄頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、その最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によってその怒りを買い、それに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた。
その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉、多くの伝説、物語を産んだ。


義経のあまりに悲劇的な姿は、忠臣蔵における浅野内匠頭の姿と二重写しになります。そして、いずれも世上の同情を引き歌舞伎や浄瑠璃などで頻繁に取り上げられてきたのです。

武将は常に生き残りのため、上位者に対してどうふるまうか、戦になったらどちらに付くかなどを懸命に考え抜いてきました。そうした能力に欠ける両者が命を落とす結果になったのは、自業自得なのかもしれません。義経も浅野も、今で言う空気が読めないKYさんだったのではないでしょうか?

一般的には頼朝は権力亡者、頼朝に告げ口した梶原景時は讒言者、義経は悲劇のヒーローとされますが、当時の時代背景からすれば、必ずしもそうとは言い切れないと思われます。権謀術数が当たり前の世界においては、そこで生き抜くための知恵が常に必要でした。

義経の場合、静御前とのラブストーリーでも有名で、彼の悲劇性がさらに増幅されてしまいます。

特に有名なのは頼朝から鶴岡八幡宮にて白拍子の舞を命じられた場面。静は頼朝の面前で、義経を慕う歌を唄って舞います。

しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな

権勢を誇示される頼朝殿を蹴飛ばすため、倭文(しず=静)の布を織る麻糸を巻いたおだまきから糸が何度も繰り返して繰り出されるように、義経殿が活躍された昔を今に戻すタイムマシンを発明できたらよかったのですが、そんな技術のない私ではもうどうにもならないのですね。

吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

吉野山の峰の白雪を踏み分けて、山奥深くに姿を隠してしまったあの人が恋しくて堪りません。

静は、頼朝の権力などものともしない女の意地を、居並ぶ武将の前で見せつけます。当然頼朝は激怒するのですが、そこで助け船を出したのが妻の北条政子。
「あんた何を怒っているの。ケツの穴が小さいわね。私が彼女の立場だったら、同じように唄うでしょうよ」と一喝され、頼朝はへなへなとなって静の命は助かったのでした。

「吾妻鏡」では静の毅然とした舞を絶賛しているのですが、なにせ「吾妻鏡」は北条得宗家の権力を正当化するために書かれたものであり、頼朝に対しては厳しいので、これも割り引いて考えなければならないでしょう。

様々な伝説に彩られ脚色された義経の姿。本記事では鎌倉や藤沢に残された彼の痕跡を探っていきます。一味違った義経伝説をご紹介できればいいのですが…、さてどうなることか。

              ―鎌倉・藤沢の義経伝説 その2に続く―


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