FC2ブログ

鎌倉・藤沢の義経伝説 その5

鎌倉・藤沢の義経伝説
07 /01 2011

衣川で自害した義経の首は6月13日に腰越まで運ばれ、和田義盛と梶原景時が検分しました。と、ここまでは義経に関する一般的なご紹介です。以降は徐々に酔石亭主流歴史解釈へと踏み込んでいきます。

義経が「腰越状」を書いたのは腰越でした。首を検分されたのも腰越です。なぜどちらも腰越だったのでしょう?もしかしたら腰越と言う場所に何か特別の意味があるのかもしれません。今回はそれを探っていきたいと思います。

まず、義経が腰越に至るルート、首となって運ばれたルートはどのようなものだったのでしょうか?平安末期の古東海道は藤沢から江の島道のルートを辿り、片瀬、腰越を通過します。当時腰越には宿駅があったとされ、従ってここに留まった訳です。

では、義経はどこから古東海道に入ったのでしょう?これは全くの想像ですが、東山道と古東海道を結ぶ街道が白旗神社の脇を通っていたのではと思います。この街道が後の八王子街道となったのです。

江戸時代的な言い方では八王子街道を下り、白旗神社の脇を抜け、東海道に入って東に歩きます。次に、旧藤沢宿遊行寺門前の遊行寺橋前から江の島道に入り、境川を渡って片瀬を南に下ります。そして龍口神社の前を抜けて神戸川を渡れば満福寺に至るのです。

003_convert_20110630153040.jpg
住所表示板。白旗神社から遊行寺橋まで。

地図は左側を北としていましたので、北を上に回転させました。このため文字がやや見にくくなっています。中央を斜めに流れるのが境川です。その支流が白旗川で、画面左上に白旗神社があります。白旗神社から南に下った交差点が白旗交差点で、ここから東は旧東海道(現在の467号線)となります。遊行寺橋もわかりますね。遊行寺橋で旧東海道と別れ南下する道が江の島道となります。

009_convert_20110630153137.jpg
遊行寺橋。この先が遊行寺です。

010_convert_20110630153211.jpg
遊行寺橋から見た藤沢橋。

013.jpg
江戸時代の絵地図。

旧東海道は大鋸橋(現在の遊行寺橋)で境川を渡り、そのまま北東に進みます。現在の藤沢橋は存在していません。鎌倉道と書かれた辺りに藤沢橋が架かることになります。


大きな地図で見る
グーグル地図画像。

画像上端のバイパスの文字の真下辺りが白旗神社で、そのまま南下するオレンジ色の道路(467号線)がほぼ平安末期における義経の移動ルートに沿っています。

なお467号線は龍口寺前で江の島方面に急カーブしますので、満福寺へは江ノ電路面区間のやや北側に沿ったルートで進むものと思われます。(腰越三丁目の江ノ電南側は当時海面下であったと想定されます)

満福寺の背後は山で海側は小動岬となり、その間の狭隘な場所を抜けると七里ガ浜に入ることになります。つまり腰越は鎌倉に入る第一の関門のような場所であり、従って前記した様に宿駅も設けられていました。

と書くと誤解を招きそうです。宿駅は鎌倉時代以前に存在していたからです。つまり腰越には鎌倉幕府開設以前の歴史が詰まっていたのです。一帯は五頭龍伝説の地であり、腰越は古くは子死越と呼ばれていました。その由来は以前に書いていますが、次の通りです。

津村には長者がいて16人の子どもがいた。しかし、一人残らず五頭龍に飲まれてしまった。長者は死んだ子を恋い慕いながら他村へと逃げていった。 それで、深沢から西へ行く道を子死越と呼んだ。

津村と腰越に関しては以下Wikipediaより引用します。

腰越(こしごえ)は神奈川県鎌倉市腰越地域(市南西部)に位置する大字。古くから鎌倉への入り口(宿駅)、そして漁業の村として栄えてきた。
もともとは津村に所属する字だったが、1666年(寛文6年11月)に「腰越村」として分離した。以降明治時代までは相模国鎌倉郡津村郷腰越村と呼ばれたが、廃藩置県後に神奈川県鎌倉郡腰越村となる。なおこの頃の行政区画が現在の大字としての範囲とほぼ一致している。1889年(明治22年)に津村と合併し腰越津村が誕生したため、腰越村は消滅し大字となった。


また腰越には御所ヶ谷と言う地名もあります。同様の地名は秦王国の豊前に存在していました。古代の山城の跡とされる御所ヶ谷神籠石で、近くには香春岳もあります。ひょっとしたら、腰越の御所ヶ谷は秦氏と関連があるのかも…。

いずれにせよ、こうした由緒のある地であれば、既に論考した鎌倉創設・滅亡の謎解きと関連しそうに思え、あれこれ調べてみました。

するとWikipediaの七里ガ浜の記事の中に面白い説が出ていたので、以下引用します。

地名の由来は、稲村ヶ崎と小動岬の間が7里(鎌倉時代、関東地方では6町を1里としていた。)あるからである。というのがこれまでの一般的な説であったが、この「関東里」を用いても、稲村ヶ崎と小動岬との間は7里に満たない。近年、これは鶴岡八幡宮と腰越の間の距離であり、「浜七里」と呼んだという説が出された。密教の「七里結界」に基づくもので、裏鬼門(南西)方向に7里の腰越までが浜七里だという。そして、鶴岡八幡宮の鬼門(北東)方向に野七里という地名が現存する(横浜市栄区)。八幡宮からこの野七里までの直線距離は、関東里の7里に満たない。また、間に険阻な丘陵がある。朝比奈切通しを経由すると若干遠回りになる。これはまだ通説にはなっていないようだが、興味ある説である。


カテゴリ「鎌倉の謎を解く」、記事「鎌倉の地名由来を考える 2010年6月22日」にて鎌倉の鬼門ラインは本郷台近く(鍛冶ヶ谷口)の白山神社(付近に秦川勝創建の光明寺がある)から極楽寺谷戸入口(由井の里)に鎮座する金山の白山神社を結んだ線だとしました。なぜなら鎌倉は一大産鉄都市であり、いずれの白山神社も産鉄・鍛冶に関係があるからです。

本郷台の白山神社は正中元年(1324年)現在の八軒谷戸の奥にある神戸(ごうと)の光明ケ谷(秦川勝の光明寺との関連を想起させる)に遷座し、これにより鎌倉の鬼門ラインが変更されます。新たなラインは鶴岡八幡宮内にある丸山稲荷社(元々この地に鎮座していた)の上を通り、金山の白山神社へと至ります。このラインは鎌倉を切り裂く刃となって幕府は滅亡した、との仮説を立てました。

そして野七里は正しく白山神社が新たに遷座した場所なのです。次回はその詳細を見ていきましょう。(鎌倉と白山神社の関係については、サブカテゴリ「鎌倉の謎を解く」の中で様々な角度から検証しています)

            ―鎌倉・藤沢の義経伝説 その6に続く―

スポンサーサイト



酔石亭主

FC2ブログへようこそ!