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鎌倉・藤沢の義経伝説 その7

鎌倉の謎を解く
07 /03 2011

今日は白山神社との関連で宝善院を見ていきます。

その前に…、白山神社と言えば白山信仰が連想されます。白山信仰の創始者は誰かご存知ですか?そう、かの有名な泰澄です。

泰澄は秦氏系の人物とされ、名前は秦泰澄です。宝善院は何とこの泰澄創建になるお寺なのです。白山信仰に関しては以下Wikipediaより引用します。

養老元年(717年)修験者泰澄が加賀国(当時は越前国)白山の御前峰に登って瞑想していた時に、緑碧池から十一面観音の垂迹である九頭龍王が出現して、自らを伊弉冊尊の化身で白山明神・妙理大菩薩と名乗って顕現したのが白山修験場開創の由来と伝えられ、以後の白山信仰の基となった。


その泰澄が717年に開いたのが平泉寺白山神社(へいせんじはくさんじんじゃ)です。この神社は、福井県勝山市(旧平泉寺村)に所在し、正式な社名は白山神社。白山信仰の越前側の禅定道の拠点として大いに栄え、最盛期には48社36堂6千坊、僧兵8千人の巨大な宗教都市を形成したそうです。

義経と平泉。平泉寺と泰澄。何だか妙な繋がりが出てきそうにも思えます。

では、宝善院について見てきましょう。龍口寺から東に向かうと、画像のように宝善院から東南方向に延びる道に至ります。以前は宝善院の寺域が二つの道の交点まであったと考えられます。


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龍口寺から宝善院一帯のグーグル地図画像。

創建は天平神護年間(765~767年)。真言宗大覚寺派のお寺です。泰澄山瑠璃光寺と持山霊山寺と言う二つの山号・寺号を持っています。泰澄山はもちろん泰澄にちなんでいるのでしょう。本尊は薬師如来ですが、聖徳太子作とされる薬師如来、行基作とされる十一面観世音があります。

実際にはもっと新しい時代のものと見られますが、聖徳太子や行基の名前が挙がっている点が注目されます。また満福寺(744年)、宝善院(765~767年)、龍口明神社(552年)、江の島(672年 役小角が開基)といずれも創建の古い(とされる)神社仏閣がこの一帯に集中しているのも注目すべき点です。

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宝善院山門。

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宝善院本堂。

聖徳太子と泰澄、行基とは正しく秦氏と関係の深いメンバーですね。江の島には空海も行っていますから、秦氏関連の有名人が出揃ってしまいます。泰澄は信仰していた十一面観音をこの地に祀ったのですが、それがこの寺の始まりと伝えられています。

創建1300年を記念して十一面観音座像を修理中とのこと。大きな案内看板が出ていました。

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案内看板。

龍口明神社の五頭龍と泰澄が修行中に出現した九頭龍王は、もしかしたら同じなのかもしれません。そして龍は八岐大蛇に代表されるように産鉄と絡んでいます。白山神社はもちろん産鉄・鍛冶族が祀る神社です。ちなみに、本郷台鍛冶ヶ谷の白山神社は奥州の鍛冶一族が祀ったとも伝えられています。

江の島で有名なのは弁財天ですが、これも産鉄民に信仰されています。江の島の弁財天は陰部を露出しており、それを「ほと」と言うのは以前にも書いたと思いますが、たたら製鉄の火処(ほと)にちなんでいるからです。全部が太い糸で結ばれているような気がしませんか?

欽明13年(552年)、村人達は五頭龍大神を祀るために龍口山の龍の口(龍口寺の隣に位置する)に社を建て、この神を子死方明神や白髭明神と呼びました。龍口明神社の発祥です。ちなみに、白髭明神は秦氏と密接な猿田彦を意味していると思われます。

その龍口明神社と泰澄は深い関係があります。養老7年(723年)泰澄は江の島の岩窟にて修行したのですが、夢枕に神々が現れます。それを彫刻したのが江の島の弁財天です。また龍口明神社の祭神である玉依姫命と五頭龍大神の木像は白鬚明神に納めたとされています。この時点で社は龍口明神社と名付けられたとされ、命名には泰澄の関与が窺えるのです。龍口明神社に関しては以下Wikipediaより引用します。

龍口明神社(りゅうこうみょうじんじゃ)は神奈川県鎌倉市腰越地域腰越にある神社。 創建は538年と伝わり、鎌倉市に現存する神社では一番古い。(552年創建とする説もある)玉依姫命は神武天皇の母、海神族の祖先で、龍神として崇められたと伝えられる。もう一つの祭神である五頭龍大明神は、江の島の弁財天に悪業を戒められた龍であると伝えられ、江の島弁財天とは深い関係にある。
この龍が改心し岩山と化した後、津村 (腰越および隣接の現鎌倉市津一帯) の村人達が、龍の口にあたる岩上 (龍口) に社を築いて白髭明神と称し、村の鎮守としたことが、龍口明神社の発祥とも伝えられている。


以上、腰越に白山神社こそありませんが、白山信仰の総元締めがこの地で寺を創建していたのです。従って、野七里と腰越とはあらゆる角度から見て繋がっていると考えて間違いありません。

義経と腰越の関係が、その背後で思わぬほどの広がりを持ってしまいました。

整理し直します。野七里と浜七里は明らかに対応していると見ていいでしょう。ただそれは、Wikipediaにあるように実測距離の関係ではありません。七里とは大江戸八百八町と同じ単なる記号・符号です。

野七里は神戸の白山神社から鶴岡八幡宮まで、すなわち鶴岡八幡宮から見て北東の鬼門ライン(野七里ライン)を意味しています。鶴岡八幡宮から見て金山の白山神社は南西の裏鬼門ラインとなります。

そして金山の白山神社から腰越までが東西ライン(浜七里ライン)となり全部が等距離で結ばれているのです。そしてこれらのラインは鎌倉幕府の創設と滅亡に係わっていました。だから神戸の白山神社周辺と腰越周辺には同じ記号が幾つも存在しているのです。

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ラインを示す電子国土地図。

ラインの上の四角が鶴岡八幡宮(丸山稲荷社=鎌倉最古の神社)、下の四角が金山の白山神社を示します。

義経の死によって頼朝は鎌倉幕府を創設しました。歴史にIFはありませんが、頼朝が兄弟の情を重視し義経を排除していなかったとしたら、朝廷や奥州藤原氏に担がれた義経の胸に野望の灯がともったとしたら、世界は変わっていたでしょう。

頼朝は義経を排除することで1192年に鎌倉幕府を成立させました。しかし首の検分により義経の死が確認された腰越は、浜七里ラインが裏鬼門となる金山の白山神社に接続し、鶴岡八幡宮境内の丸山稲荷社を経て北東の鬼門ラインに繋がり、神戸の白山神社へと至り、幕府を滅亡に導くラインとなっていたのです。

そしてこのラインは、秦氏などの特殊技能民が設置したものでした。義経の死が鎌倉幕府創設に繋がり、彼が「腰越状」を書き、首を検分された腰越は幕府滅亡のラインへと接続していたのです。

言い換えれば義経は、鎌倉幕府の創設と滅亡を象徴する存在と位置付けられていたのではないでしょうか?もちろん位置付けたのは秦氏など特殊技能民です。だとすれば、義経が死んだ後の伝承にも秦氏の影響が見られるはず。次回以降はそれを探っていきましょう。

            ―鎌倉・藤沢の義経伝説 その8に続く―
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酔石亭主

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