FC2ブログ

鎌倉・藤沢の義経伝説 その9

鎌倉・藤沢の義経伝説
07 /09 2011

「その8」にて義経と白山神社の関係について書きました。彼が吉野を脱出して奥州に向かうに際しても、白山神社は重要な役割を果たしています。各地の白山神社に残る伝承からすると、義経は奥美濃から北陸方面に抜けるルートで平泉を目指したと考えられます。

言い換えれば、白山系修験者の手引きにより義経は平泉まで逃げ延びることができたのです。

吉野を脱出した義経は美濃へと向かい、そのまま奥地に進みました。険しい山の連なりをよく歩き通したと感嘆しますが、当時既に白山修験者のネットワークができていたのです。

義経はまず美濃長滝に入ります。長滝は白山登山の美濃側の起点で美濃馬場(みのばんば)と呼ばれています。美濃馬場は現在の長滝白山神社と白山長滝寺に当たり、神仏分離前は白山中宮長滝寺と称されていました。所在地は岐阜県郡上市白鳥町長滝138で、創建は養老元年(717年)。開祖は泰澄とされています。

ちなみに、越前側の起点である越前馬場が平泉寺白山神社で、加賀馬場は白山寺白山本宮(白山比神社)でした。

義経一行は長滝を出て桧峠を越え、石徹白(いとしろ、岐阜県郡上市白鳥町)に入ります。
石徹白には白山中居神社(はくさんちゅうきょじんじゃ)が鎮座しています。所在地は岐阜県郡上市白鳥町石徹白2-48で、創建はいささか伝説的ですが、景行12年(82年)とされています。

石徹白は白山信仰で繁栄を極め、義経の時代には「上り千人、下り千人、宿に千人」と言われるほど多数の修験者が出入りした土地でした。明治に至るまでどの藩にも属さない、特殊な自治区だったのです。この地域に住む人々は、「御師」として各地に信仰を広めたとされます。

そして、石徹白の白山中居神社の中居は、白山山頂の本社と美濃馬場「長滝寺」の中間を意味していました。藤原秀衡は白山信仰の熱烈な崇拝者であり、白山中居神社に「虚空像菩薩坐像」を寄贈しています。(像は現在、神仏分離により「大師堂」に安置)


大きな地図で見る
グーグル地図画像。

白山長滝とある場所が長滝寺所在地です。白鳥高原CCの上が桧峠。127の表示の北が白山中居神社です。地図を拡大して参照ください。勝山市にある平泉寺白山神社はその北西方向に鎮座しています。雪解けを待って義経は石徹白を脱出。次に向かったのが「その8」で書いた平泉寺白山神社でした。

続いて義経は、加賀馬場である白山比神社に向かいます。所在地は石川県白山市三宮町。この神社から北に位置する金剱宮までは義経街道と呼ばれています。

なお酔石亭主は子供のころ白山比神社からさらに奥の、白山スーパー林道入口にある中宮温泉に行ったことがあります。もちろん親に連れられてです。この近くの河原は水石の産地で、蒔絵のような小菊の紋様が現れる白山菊紋石を何個か拾いました。

白山比神社に関しては以下Wikipediaより引用します。

白山比神社(しらやまひめじんじゃ)は、石川県白山市三宮町に鎮座する神社である。式内社、加賀国一宮で、旧社格は国幣中社。現在は、全国に2000社の白山神社の総本社とされる。…中略…
平安時代中期の9世紀頃になると、自然崇拝の山から修験者の山岳修行や、神仏習合思潮に彩られた霊場へと変質を遂げるようになり、加賀・越前・美濃の三方から山頂に至る登山道(禅定道)が開かれ、それぞれの道筋に宗教施設(社堂)が次第に調えられていった。


金剱宮において義経は神楽を舞ったとのこと。また金剱宮舞殿の前には義経が腰掛けたとされ「腰掛石」があります。

義経の移動ルートは白山修験道の拠点に沿っていました。その背後には、白山系修験者と藤原秀衡の存在があったと見て間違いなさそうです。

義経一行は加賀から海沿いに奥州へと向かいます。途中彼らは能生浦に泊まりました。義経は能生白山神社(能生山太平寺)に常陸坊の名を刻んだ梵鐘を寄進したそうです。神社所在地は新潟県糸魚川市。当初は奴奈川姫を祭神とする奴奈川神社だったものを、泰澄が白山権現に改めたとされます。奴奈川姫は糸魚川のヒスイを祭祀する女神で、その近くに鎮座していたから元は奴奈川神社だったのでしょう。

義経は、これら白山系の拠点を経由して北陸に抜け、海岸線を北上、奥州平泉へと向かいました。義経と白山神社(白山修験道)の関係が、彼の逃亡ルートから浮き彫りにされます。

なお静岡県の蒲原には、蒲原木之内神社(別名源九郎稲荷)があり、境内社として白山神社が鎮座しています。これは、義経が東下のおりに守護神である稲荷大神と白山神を勧請したことによると、解説板の由緒に記載されています。守護神とは義経を守護した一族を意味し、稲荷は秦氏で白山神は白山系修験者。義経の背後に誰がいたのかはっきりしますね。

そして辿りついた奥州平泉中尊寺の深源には、摩多羅神を日本に勧請した慈覚大師創建になる白山神社があったのです。修験道は密教や天台系と習合しますが、平泉は天台系の修験道が入り込んでいると考えられます。

このため毛越寺常行堂には摩多羅神が祀られています。また300年程前に相原友直が著した「平泉雑記」には摩多羅神に関して、「或人問、摩多羅神ハ平泉ノ鎮守ナリ、是何レノ神ナルヤト…」などと書かれています。平泉の鎮守が摩多羅神なのですから凄いですね。

毛越寺の摩多羅神に関しては、山本ひろ子著「異神」上巻(ちくま文芸文庫)に詳しく記載されていますので、ご参照ください。

秦氏は平安初期以降歴史の表舞台から姿を隠し各地に散っていくのですが、白山系、密教系、天台系の修験道とも混じり合っていったのでしょう。

義経の吉野から奥州平泉への逃避行には、白山系修験者が関与していました。関与と言うより丸抱えです。同様に、義経死後の北行伝説はこれらの修験者(御師)たちが信仰を広める際に持ち運んだとは考えられないでしょうか?

話が全国レベルにまで拡散しましたが、以上から、腰越と二つの白山神社を結ぶラインに義経の存在が組み込まれていると見てほぼ間違いなさそうです。

              ―鎌倉・藤沢の義経伝説 その10に続く―

スポンサーサイト



酔石亭主

FC2ブログへようこそ!