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鎌倉・藤沢の義経伝説 その14


寒川にある寒川神社には、徐福について書かれた「宮下文書」の写しである「寒川文書」が存在していました。(「寒川文書」は相模川の洪水で流出し、写しが残存)その寒川神社の分霊を勧請したのが白旗神社の前身であるため、白旗神社は秦氏と関係があったと考えられます。(白旗の地自体が秦氏と関連している点は「その12、13」で書いています)

話は急に変わります。三浦氏は宝治元年(1247年)の宝治合戦で北条・安達軍と戦い滅亡しました。彼らもまた、諸説ありますが、平良文から続く関東平氏の流れとされています。宝治合戦で自害した三浦義村については、「鎌倉大仏の謎」でも取り上げています。今回は若干スピンオフしますが、まず関東平氏である三浦氏について見ていきましょう。

系図は諸説あるものの、一応以下の通りです。

平良文…忠通―為通―為継―義継―義明―義澄―義村―泰村

良文の曾孫である忠通は三浦を名乗り、為通は前九年の役(1051年~1062年)で武功を挙げ、源頼義から相模国三浦の領地を与えられました。為継の代となって三浦氏は勢力を伸ばします。

義明は相模に根を張り三浦党と呼ばれる武士団を形成。その後、義明・義澄(義明の次男)は源義朝に従って、保元の乱(1156年)・平治の乱(1159年)で戦います。ところが、義朝は平治の乱で敗れ、知多半島の野間において入浴中に殺されてしまいます。義朝派の三浦一族は存亡の危機に立たされたのです。彼らは雌伏して、何とか戦乱の世を生き延びます。

治承4年(1180年)に頼朝が挙兵した際は、三浦一族も挙兵しました。この折に、義明は平氏軍の攻撃を受け、衣笠城で討ち死にします。鎌倉幕府成立後は義明の子である義澄が相模守護となり、幕府を支える有力御家人となりました。

泰村の代になっても三浦一族は権勢を維持していましたが、北条時頼と安達景盛の策謀に乗せられて鎌倉で挙兵。北条・安達軍との一戦に臨みました。世に言う宝治合戦です。しかし三浦軍は大敗して、泰村は一族郎党と共に頼朝を祀る法華堂で自害したのです。以上、三浦一族についてざっと見てきました。

でも、なぜここで唐突に三浦氏を取り上げたのか、不審に思われたことでしょう。それにはある深い理由があったのです。

と言うことで、この記事の最初に書いた「宮下文書」に戻ります。この文書は阿祖山太神宮(富士浅間神社)の宮司を代々務めてきた宮下家が保存してきたもので、徐福が筆録したとされます。

徐福は始皇帝に、「東海の蓬莱山島は全世界の大元祖国で、この蓬莱山島には長生不死の良薬がある。この良薬を飲めば永遠の命を保てる」などと奏上、不老不死を心底願う始皇帝の許可を得て日本に渡来しました。

「宮下文書」の原書は徐福が筆録したものを、七代後裔の秦福寿が書き写し追録したものとされています。歴史家からは偽書とされるいわくつきの文書です。

「宮下文書」が「寒川文書」と呼ばれるようになった由来は以下の通り。
延歴19年(800年)の4月、富士山が爆発し大噴火となります。この大噴火によって太神宮は消失。神宮の関係者は相模国に移住し、相模川に沿った高座郡の地に寒川神社を創建して文書を保管したのです。このため文書は「寒川文書」と称されることになりました。

富士山麓に居住していた秦氏も同様に移住し、大月や小渕を経て秦野及び寒川に入ったのは「相模国の秦氏」で見てきたとおりです。

時代は流れ、建久3年(1192年)あるいは建久5年。阿祖山太神宮の宮司・宮下源太夫義仁がこの文書を寒川神社宝蔵にて書き写し、太神宮の宝物とします。

寒川神社は、弘安5年(1282年)大洪水のため社屋が流出。「寒川文書」も消失しました。しかしその内容は、宮下源太夫が筆写していたので残存したのです。

さて、この宮下源太夫義仁なる人物とは一体誰なのでしょう?三浦氏と「寒川文書」がここでリンクします。

三浦義明の長子義顕は保元の乱・平治の乱に破れ、平治2年(1160年)富士阿祖谷に落ち、寒川神社の大宮司・宮下義太夫政仁の計らいで宮伴となり、翌年寒川大明神を元始にもどし富士八幡と改めました。

そして、嫡子源重成を宮下源太夫義仁に改名させ富士七廟(富士高天ヶ原神廟)の大宮司を継承させたのです。調べてみると、これらの神廟には「寒川の神廟」もありました。現在の寒川神社は、「寒川の神廟」の名が富士山大噴火後相模国に持ち込まれて付けられたものと考えられます。

また、富士八幡はかつて福地八幡(現在の冨士浅間神社摂社)と呼ばれていました。つまり、富士山は福地山だったのです。徐福の子孫の姓には「福」が付きます。福地山とは、徐福の子孫の住む地にある山を意味しているのでしょう。それを噴火後富士山に改めたものとされています。福地八幡神社は大月にもあり、秦氏の移動経路が見えてきます。

なお、8世紀後半に成立した万葉集では富士山は「不尽山」と歌われています。尽きることなく噴火する山と言う意味ですね。ところが一方で阿祖山とも表記あります。これはマレー系言語のアソ、アサが煙を意味することに由来しています。阿蘇山、浅間山、吾妻山などがその例となります。

さすが霊峰富士は日本における火山の頭領です。だから、福地山、阿祖山、富士浅間神社の浅間、不尽、富士と幾つも名前を持っているのです。

この地には富士八幡以外に徐福八幡もありました。富士山麓一帯は秦氏の手になる徐福伝承が色濃く残る場所で、富士吉田市小明見の太神社に徐福祠(徐福の墓とされる。徐福八幡のこと)があり、河口湖浅間神社末社の徐福社、山中湖の長池村、聖徳山福源寺の鶴塚などがあります。

また浅間神社本殿に向かう表参道中央には波多志神社と呼ばれる祠があります。これは間違いなく秦氏を祀る祠でしょう。富士吉田市には羽田姓も多く、秦氏との関連が窺えます。

上記からも寒川神社の元が富士山麓にあり、徐福を担いだ秦氏に繋がっていると理解できます。その分霊を勧請したのが白旗神社の前身である寒川神社(秦氏の古墳の上にあると推定)でした。秦氏の関与する義経が、白旗神社に祀られる意味もこれで明確になります。

一方三浦一族は、平治の乱で義朝に加勢したため窮地に陥り、彼らの一部が宗門に入ることで存続を図ったのです。

そのお蔭で「寒川文書」の写しが残り、富士山麓に居住していた秦氏が相模国に移住した経緯まで推定できるようになりました。もし三浦一族がいなかったら、「宮下文書」は歴史の闇の中に消え去って、この記事も書かれることはなかったのです。

話は変わりますが、長屋王家木簡の一つに面白いものがあります。木簡の表には「相模国高座郡美濃里秦大□」と記されており、裏は「和銅七年十月」とあります。(和銅七年は714年)

美濃里は相模原市辺りと推定され、秦大の後に何が入るのか興味深いところです。例えば秦大魚(はたのおおな)は730年に尾張少目であったとの記録があり、地方官を歴任しているので、もしかしたらこの人物かも…。あるいは、相模国在住の秦氏系財務官が何か荷物を送ったとして、秦大蔵と考えるのも筋が通りそうです…。

いずれにせよ、800年以前に秦氏の別グループが既に相模国に入っているのです。きちんと整理できないのですが、財務官僚系の秦氏と徐福を担いだ秦氏は別の動きをしていたのかもしれません。

           ―鎌倉・藤沢の義経伝説 その15に続く―
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