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鎌倉・藤沢の義経伝説 その16

鎌倉・藤沢の義経伝説
07 /18 2011

この記事もいつの間にか「その16」まで回を重ねてしまいました。書いているうちにイメージが膨らみ、回数が増えてしまうのはいつもの通りです。ただ、記事は一定の視点で体系的に書いているつもりですので、「その1」から順にご覧いただければ幸いです。

さて、7月15日から白旗神社において白旗まつり・例祭が執り行われています。(最終日は7月21日)記事の進行とうまくタイミングを合わせることができたので、順次ご紹介したいと思います。今日ご紹介するのは16日(土)の訪問分です。行った時点では特に行事はありませんでした。

神社からかなり離れた湘南高校周辺まで旗が立てられ、縄で結界が張られています。

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旗と結界。

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石段下から見た神社拝殿。色とりどりの提灯が吊るされています。

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拝殿。提灯と笹竜胆の神紋入りの幕などが華やかに社殿を飾っています。

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提灯の一つに領家町とあります。

この町名には何か意味がありそうに思え、Wikipediaで調べてみました。以下引用します。

平安時代中葉の10世紀後期から11世紀の頃、地方の有力農民である田堵(たと)による田地開発とその私有地化が活発化した。このような開発田地の所有者を開発領主というが、その土地所有は法的根拠に欠け、国衙に収公される可能性も高く、非常に不安定なものであった。そのため、開発領主の多くは、中央の有力貴族や有力寺社へ荘園を寄進することで、荘園の支配権・管理権を確保するようになった。このとき、寄進を受けた者が領家である。


白旗神社は鎌倉権五郎景政が開発し伊勢神宮に寄進した土地(荘園=大庭御厨)の中にあります。すなわち、白旗における「領家」は大庭御厨を寄進された伊勢神宮を意味します。白旗交差点の周辺がかつての「領家」で、それが町内会の名称で今も使われているのです。「領家」には、荘園からの上がりを管理する組織とそれを統括する伊勢神宮の出先機関があったのでしょう。

藤沢本町の西にある伊勢山も「領家」の存在と対になっていると考えられます。かつてここには、伊勢神宮を遥拝するための遙拝所がありました。よって伊勢山と呼ばれるようになったのですが、遙拝したのは領家に駐在していた伊勢神宮の駐在員だったのでしょう。

彼らは、「こんな草深い東国の地にはもういたくない。天照大神様早く私をあなたのお膝元に帰らせてください」などと心の中で思いながら、伊勢の方角に手を合わせ祈ったはずです。あくまで想像ですが…。

藤沢に天孫系の神社はほとんどありません。しかし、伊勢山の南には鵠沼皇大神宮(所在地:藤沢市鵠沼神明2-11-5)が鎮座しています。既に書いたようにこの境内地には大同3年(808年)に石楯尾神社が創建されています。その場所に天長9年(832年)烏森神社の社殿が建てられ、鵠沼皇大神宮の前身が創建されました。

この神社が鵠沼皇大神宮と呼ばれるようになったのは永久5年(1117年)で、 鎌倉権五郎景政が大庭荘を伊勢神宮に御厨として寄進(1104年頃)し、神社が藤沢、茅ヶ崎、寒川を含む御厨の総鎮守と定められてからのことです。よって、天照大神を祀る鵠沼皇大神宮の実質的な創建は大庭御厨成立後と考えられます。

以上を総合すると、大庭御厨が成立して現在の白旗交差点付近に領家(=伊勢神宮)の出張所が設置された。伊勢からやってきた駐在員が伊勢神宮を遥拝する遙拝所を伊勢山に設置した。伊勢山は一種の山宮となる。そして里宮としての鵠沼皇大神宮がほぼ同時に成立した、と考えられます。

つまり領家町、伊勢山、鵠沼皇大神宮は三点セットとして存在していたのです。拝殿に吊るされた提灯一つにも、奥の深い歴史が詰まっていました。だから歴史探索はやめられない…。


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領家町、伊勢山、鵠沼皇大神宮を示すグーグル地図画像。

藤沢本町駅東側の白旗交差点一帯が領家町、本町駅の西側はすぐに伊勢山、湘南高校の南側が鵠沼皇大神宮。

以前、伊勢山にある妙見碑をご紹介しています。伊勢神宮の度会氏は妙見信仰を持っていたので、その関連でここに妙見碑が建てられたと推測したのですが、間違っている可能性が出てきました。

碑は伊勢山の南側斜面で発見されたそうです。白旗神社関連であれこれ資料を見ると、山の南側の古い地名は「風早」でした。実は、千葉氏の一族に風早氏がいます。系図的には、千葉介常胤―東胤頼―胤康(四男)と続き、胤康が下総国葛飾郡風早郷に居住して風早四郎左衛門と称しました。

以上から、千葉氏の流れを汲んだ風早一族がこの地にいたので妙見碑が建てられたとする方が妥当なように思えてきます。結局、藤沢にある妙見碑はいずれも千葉氏の関連だったのです。

            ―鎌倉・藤沢の義経伝説 その17に続く―
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酔石亭主

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