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鎌倉・藤沢の義経伝説 その21


記事をアップした後になって、調査不足が発覚するケースがしばしばあります。今回もそうしたケースが出てきましたので、恥ずかしながら追加的に書くこととしました。(弁慶の塚はまたも先送り…)追加すべき部分は「その16」の中にあります。

『白旗交差点の周辺がかつての「領家」で、それが町内会の名称で今も使われているのです。「領家」には、荘園からの上がりを管理する組織とそれを統括する伊勢神宮の出先機関があったのでしょう』

「その16」において、「領家」には伊勢神宮の出先機関があったのでしょうと、推測で書いています。しかし良く調べてみると、実際に出先機関はあったのです。参考になったのは『天養記』でした。

『天養記』「官宣旨案」は、天養2年(1145年)大庭御厨に対する源義朝の狼藉(大庭御厨濫行)を訴えた大神宮の解状 に対して出された宣旨で、狼藉が実際にあったのは1143年4月のことです。宣旨の内容を以下抜粋します。

その最中高座郡内字鵠沼郷、今俄に鎌倉郡内と称し、事を彼の目代の下知に寄せ、義朝郎従清大夫安行並びに字新籐太及び廰官等、去年九月上旬の比、旁々濫行を致し、伊介神社の祝荒木田彦松の頭を打ち破り、死門に及ばしむ。訪行の神人八人の身を打ち損い、供祭料魚を踏み穢し、郷内の大豆、小豆等を苅り取る所なり。

伊介神社とは鵠沼皇大神宮のことです。それを示す大庭御厨の領域図は以下の通り。

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大庭御厨の領域図。こうして見ると随分広いですね。

義朝の家来たちは鵠沼郷に鎮座する鵠沼皇大神宮の宮司荒木田彦松を殺害し、神人8人に傷を負わせました。荒木田氏は伊勢神宮内宮の禰宜として江戸時代の末まで神官を務めています。

上記の内容から、伊勢神宮の言わば本部出張員社宅が「領家」にあって、出張員は鵠沼皇大神宮に務めていたとわかります。通勤時間は徒歩で10分程度。「その16」では以下のように書いたのですが…。

『彼らは、「こんな草深い東国の地にはもういたくない。天照大神様早く私をあなたのお膝元に帰らせてください」などと心の中で思いながら、伊勢の方角に手を合わせ祈ったはずです。あくまで想像ですが…』

神への祈りも空しく、荒木田さんは本社に帰任する前に殺害されてしまったのです。酔石亭主も海外駐在経験があり、現地は日本より治安が悪かったので、常に神経を張り詰めさせていました。もちろん、荒木田さんの時代はもっと治安が悪かったはず。そんな中で神聖な仕事に従事される方が殺されるとは、本当に言葉を失います。

このように、「領家」と言う地名には奥深いものがあったので、他にも伊勢神宮との関連を連想させる地名がないか調べることにしました。

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「新編相模国風土記稿」をコピー。

この中に「車田」と言う地名があります。これは間違いなく伊勢神宮に関連した地名でしょう。「車田」は特殊な稲の植え方を示しています。

「車田」の場合、田の中央に杭を立て、その外側を車輪のように同心円状に植えていきます。車田で収穫された米は伊勢神宮に(この場合は鵠沼皇大神宮に)神饌米として奉納されるため、穢れた糞尿などは一切使用せず、わらや穀物殻を肥料として、生活汚水の入らない田で作られました。

「車田」とはそのような場所であったのです。現在の湘南高校辺りが「車田」になります。高校はちょっとした高台なので、その南の平坦地つまり鵠沼皇大神宮の北側で神饌米を作っていたのでしょう。

では次に移ります。「その16」で以下のように書いています。

『以上を総合すると、大庭御厨が成立して現在の白旗交差点付近に領家(=伊勢神宮)の出張所が設置された。伊勢からやってきた駐在員が伊勢神宮を遥拝する遙拝所を伊勢山に設置した。伊勢山は一種の山宮となる。そして里宮としての鵠沼皇大神宮がほぼ同時に成立した、と考えられます。つまり領家町、伊勢山、鵠沼皇大神宮は三点セットとして存在していたのです』

しかしです。「我が棲む里」の以下のコピーをご参照ください。

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「我が棲む里」のコピー。

八王子権現社の項7行目下から、「壁土山の側らなる大神宮なり、」と言う文章があります。壁土山と言う山の傍らに大神宮があるとすれば、これこそが伊勢神宮を遙拝するための場所です。
では、伊勢山はどうなってしまうのでしょう?まず下の写真を参照ください。

011_convert_20110723091710.jpg
写真。

駅は小田急藤沢本町駅です。線路の左右に森が見えます。この小田急線に削り取られた部分が、家の壁土を取った山すなわち壁土山です。線路右側の森はそのまま伊勢山に続いていますので、壁土山は伊勢山の一部と見て間違いないと思います。


大きな地図で見る
壁土山を示すグーグル画像。

結局のところ、伊勢神宮関連は領家町、伊勢山(壁土山)、鵠沼皇大神宮、車田の4点セットだったのです。ちなみに、藤沢北部の菖蒲沢には豊受大神もあります。由緒は伝わっていませんが、鵠沼皇大神宮のペアとして創建されたものと推測されます。

「新編相模国風土記稿」コピーには「風早」の地名も出ています。実際にどこかで使われていないか調べたところ、ありました。

008_convert_20110723091741.jpg
伊勢山橋の脇にある真源寺です。山号が風早山とあります。

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本堂。

以上、調査不足の点が多々あり、あれこれ追加を書きました。今後も同じような事例が出るかもしれませんが、ご了承ください。

             ―鎌倉・藤沢の義経伝説 その22に続く―
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