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鎌倉・藤沢の義経伝説 その24

鎌倉・藤沢の義経伝説
07 /28 2011

ここまでの検証で判明したのは、義経の背後には修験道の二大勢力である熊野修験と白山修験の存在があり、そのまた背後には秦氏がいると言うことでした。義経が伝説的な人物と化した理由もまた、秦氏が変容した自由往来の民たちの手になるものでした。

それは秦氏の関与する聖徳太子信仰が空海の弘法大師信仰に流れ込み、現在まで続いているのと同質と言えるでしょう。

さて今回は、八王子権現を管理していたとされる荘厳寺についてです。

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「我が棲む里」の荘厳寺に関するコピー。古義真言宗の古いお寺のようです。

「我が棲む里」の八王子権現に関する項の中に真言宗荘厳寺が白旗神社、山王権現、大神宮、八王子権現の四社の別当として管理に当たっているとあります。

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「我が棲む里」のコピー。

荘厳寺は過去に相当な権限を持っていたとこの内容から想像できるのですが、なぜそれほどの力を持っていたのでしょう?

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荘厳寺です。

実際の寺は、案に相違して小さなものでした。元暦元年(1184年)、覚憲僧都が草創したとのことで、長い歴史を持っています。「我が棲む里」によれば、荘厳寺旧地は常光寺西の妙善寺の旧地の山下にあったとのこと。こんなところで妙善寺が顔を出しています。荘厳寺が白旗神社の別当寺だったのは、妙善寺と秦氏の関係が影響を及ぼしているようにも推測されます。

そこで白旗神社のホームページを再度参照してみました。建久9年(1198年)荘厳寺住職覚憲が別当職になるとあり、宝治3年(1249年)9月源義経公を合わせ祀ると書かれています。

由緒 往昔一ノ宮寒川神社を勧請し建久九年荘厳寺住僧覚憲別当となる、文治五年源義経奥州にて敗死し、…中略…宝治三年丁丑九月義経を合せ祀る、社前領家町に首塚、首洗井あり

ここで留意すべきは、覚憲が別当になった当時、神社は寒川神社だったことです。そして荘厳寺の古義真言宗は秦氏と繋がりの深い空海の直系的な宗派であり、徐福系秦氏の子孫の墓がある妙善寺に旧地がありました。

だとしたら、秦氏と繋がりのある寺が荘厳寺だったのではないでしょうか?またこの寺は、藤沢最古の寺となっています。

しかも覚憲は秦氏系の寺である大安寺の別当も務めています。空海と密接だった秦氏系の勤操(ごんそう)もまた大安寺の僧でした。

秦氏と縁の深い空海直系の覚憲が寒川神社(その下には多分秦氏の古墳がある)の別当になり、1249年になって義経が祀られ白旗神社が成立します。こうした複雑な経緯は白旗の地に秦氏が影響を及ぼしていることの証明になるでしょう。

そうした歴史があったから、義経を守る弁慶塚は荘厳寺と言う議論が出てきたのです。義経の死後にも秦氏が関与していそうな雰囲気がいっそう強くなってきました。

なお荘厳寺には義経の位牌があります。天保3年(1832年)に宥全和尚が作ったもので、古くはありません。但し、それ以前にも義経の位牌はあったそうです。位牌が作られた背景には、小川泰堂の「我が棲む里」文政13年(1830年)があると見られます。

              ―鎌倉・藤沢の義経伝説 その25に続く―
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酔石亭主

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