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秦さんはどこにいる? その6

秦さんはどこにいる?
09 /11 2011

今回は秦氏の最重要拠点であった京都府から滋賀県、三重県を見ていきます。

京都府:全体で96人。亀岡市15人。宇治市12人。
滋賀県:全体で僅か28人。
三重県:全体で165人。三重郡菰野町55人。四日市市36人。員弁郡東員町22人。津市14人。

上記の結果を見てどう思われたでしょう?京都は秦氏最大の拠点なのに秦姓が少な過ぎる、と思われたのではないでしょうか。彼らの本拠地太秦は右京区に含まれますが、右京区にしても一桁の9人です。伏見稲荷大社のある山科区に至ってはたった5人。乙訓郡も1人だけです。

やはり、秦氏の本来の姿である呪術系の面々は平安初期以降姿を隠してしまったとしか考えられません。その事実がここにもはっきりと表れています。

下京区油小路仏光寺下ル太子山町594番地には京町屋秦家住宅があり、一般の見学も可能です。会社名では秦薬品、瑞秦、秦診療所などがありました。

亀岡市の会社では秦工業があります。亀岡一帯は丹波国桑田郡で、その地名は養蚕を得意とする秦氏が桑田を作ったことに由来します。亀岡は秦氏が木材や絹糸を都に供給する重要拠点だったのです。

京都府には秦氏関連の神社仏閣・遺跡など数多く集積していますが、書いていくと細かくなりすぎますので別の機会に譲りたいと思います。

滋賀県は依智秦氏の拠点で、愛知郡秦荘町(現在の愛荘町)上蚊野地区には彼らの古墳群があり、依智秦氏の里古墳公園まで整備されています。古墳は全部で300基もあったそうで、驚くべき数です。(古墳公園内は10基程度のようです)


大きな地図で見る
愛荘町を示すグーグル地図画像。

拡大してご覧いただければ、町役場や学校名、パーキングエリア名などほとんどが「秦荘」を使っているとわかります。過去の歴史を物語る名前を安易に改名すべきではありませんね。

また秦川山の麓には金剛輪寺があり、元の寺名は松尾寺で、地名にまでなっています。秦川山とは秦川勝の山と言う意味でしょうか?そう考えて多分間違いなさそうです。松尾寺はその名前から、明らかに秦氏系の寺と考えられます。金剛輪寺に関しては以下Wikipediaより引用します。

金剛輪寺(こんごうりんじ)は、滋賀県愛知郡(えちぐん)愛荘町にある天台宗の寺院。山号は松峯山(しょうほうざん)。地名から松尾寺ともいう。本尊は聖観音、開基(創立者)は行基とされる。西明寺、百済寺(ひゃくさいじ)とともに湖東三山の1つに数えられる。
また、金剛輪寺の所在地は、昭和の市町村合併以前は秦川村といったことから、渡来系氏族の秦氏とも何らかの関係があるとみられている。


上記のように愛荘町一帯は秦氏の重要拠点と言った様相を呈しています。大和岩雄氏の「秦氏の研究」(大和書房)には、愛知郡の郡領は秦氏であり、八世紀・九世紀まで、近江国愛知郡は、ちいさな「秦王国」であった、とまで書かれています。

なのに、愛知郡愛荘町の秦姓はゼロでした。九州から始まって、どの場所も秦氏の拠点に秦姓は少ないとわかります。滋賀県全体では秦食品、秦保育所、秦川愛児園などがありました。

また犬上郡火田郷(現在の滋賀県犬上郡多賀町)は簀秦画師(さくはたのえし)の拠点で、「日本後記」の弘仁6年(815年)には、「外従五位下簀秦画師笠麻呂為西市正」と言った記述も見られます。

京都に入った秦氏が琵琶湖周辺に勢力圏を広げ、依智秦氏、近江秦氏へと展開していった流れが見えるようです。なお火田郷の地名は九州の日田(天孫降臨の中間地点)から持ち込んだものと推定されます。

画師制度が定められたのは聖徳太子の時代で、簀秦画師もこの折に定められました。指示したのは多分聖徳太子なのでしょう。聖徳太子の妃である橘大朗女は太子の死を悼み、推古天皇に願い出て「天寿国繍帳」を製作します。その下絵は、椋部秦久麻が総責任者となっていました。美術の分野でも力を発揮した秦氏。高松塚古墳の壁画制作も秦氏が参画していると見て間違いないでしょう。

天寿国繍帳に関しては以下Wikipediaより引用します。

天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)は、奈良県斑鳩町の中宮寺が所蔵する、飛鳥時代(7世紀)の染織工芸品。天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)とも呼ばれる。銘文によれば、聖徳太子の死去を悼んでその妃が作らせたという。飛鳥時代の染織工芸、絵画、服装、仏教信仰などを知るうえで貴重な遺品であり、国宝に指定されている。…中略…
服装的には男女とも褶(ひらみ、袴や裳の上に着けた、短い襞状のもの)を着けるのが特色で、これは高松塚古墳壁画の男女像よりも古い服制であることが指摘されている。


問題は、天寿国繍帳の構図が仏教的ではなく、キリスト教的であるとされている点です。ここにも秦氏の影響が垣間見えますね。

滋賀県がやや長くなりましたので次に移ります。三重県には徐福伝承があります。熊野市波田須(はたす)は「秦住」であり、徐福が上陸した場所とされています。ところが熊野市の秦姓は1人に過ぎません。羽田姓でも、全体で121人に対して1人です。

一方四日市周辺では、三重郡菰野町55人、四日市市36人、員弁郡東員町22人、津市14人とほぼ同じ地域に秦姓が固まっています。念のため羽田姓で見たところ、四日市の羽田姓は45人、鈴鹿市が37人と圧倒的でした。菰野町はそれに次いで13人。同一地域に秦姓、羽田姓が集中している意味をどう解釈すれば良いのでしょう?

唯一可能な説明は、三重県の秦氏は愛知郡秦荘の秦氏が山越えして移住・定着したものではないか、と言うことです。この視点からは、愛知郡秦荘に秦姓がいないこと、三重県の同一地域に集中している理由が説明できるので、そう推測した訳です。

想定される山越えルートに秦姓や羽田姓が点在していたら、さらに理論武装できるはず。将来可能なら実地調査してみたいとは思っています。

四日市市には秦三商事、秦建設事務所などの社名が見られます。菰野町で秦姓が多いのは千種(千草)で、社名としては秦石材があります。員弁郡東員町長深も秦姓の方が多く居られるようで、秦クリーニング店、秦タバコ店などがありました。

京都府、滋賀県、三重県は秦氏の重点地区でもあり、いずれじっくり見て回りたいところです。

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酔石亭主

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