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秦さんはどこにいる? その8

秦さんはどこにいる?
09 /13 2011

今回は北陸方面を見ていきます。

福井県:全体で39人と少ない。勝山市11人。福井市8人など。
石川県:全体で11人と極めて少ない。
富山県:全体で6人しかいません。
新潟県:全体で64人。上越市23人。新発田市16人。

まず北陸全体で見ても秦姓は120人しか居られず、非常に少なく思えます。

福井県(若狭国)で真っ先に思い浮かぶのは、ここがシルクロードの日本における玄関口に当たることです。特に小浜市(当時の遠敷郡)は奈良と強い繋がりがありました。奈良東大寺のお水取りに使われる水は、遠敷郡を流れる遠敷川の鵜の瀬から送水されたものです。

また遠敷(おにゅう)は小丹生(おにゅう)で水銀を意味し、東大寺の大仏建立に必要な水銀を若狭から調達したことがお水取りの話に転化したものと推測されます。実際に遠敷の山中では水銀の原料となる辰砂が採取されたそうです。

秦氏はそうした重要地域に必ず痕跡を残し、福井県の場合遠敷郡に集結していました。平城宮跡出土の木簡には、遠敷郡の秦人に関する記載が見られます。例えば、「若狭国遠敷郡 青里戸主秦人麻呂戸 秦人果安御塩三斗 天平勝宝七歳(755年)八月十七日量豊嶋」などです。若狭国遠敷郡青里は現在の高浜町青郷地区に相当します。

なお木簡には、「若狭國遠敷郡青里御贄多比鮓壹□」「秦人大山」と記されたものもあります。多比鮓(=鯛の鮨)を献上したことを示すもので、日本における最古の鮨の記録です。以上から、鮨の始まりは青里に居住していた秦氏だったと考えられます。

お水送りは白装束の咒師(すし)と呼ばれる僧が呪文を唱えながら水を渕へと注ぎ込みます。咒師とは秦氏系の陰陽師だったのではないでしょうか?咒師(すし)が献上したから鮨(すし)になったとか…。そう言えば稲荷寿司も秦氏に関係が…。(あまりいい加減な説は書かない方が身のためかも…)

他には「□敷郡 青郷川辺里 庸米六斗 秦口」、「若狭國遠敷郡玉置郷 田井里秦人足結庸□粟六斗」、「若狭國遠敷郡 青郷秦人安古御調塩三斗」などがあります。滋賀県高島郡の遺跡からは「遠敷郡小丹里秦人足嶋庸米六斗」の木簡が出土しています。なお、ワードにない文字や欠けた文字は□にして省いていますのでご了承ください。

以上、遠敷郡の様々な産品が秦氏の手で献上されているとわかります。「若狭國遠敷郡青里御贄多比鮓壹□」にあるように、遠敷郡青里は「贄」を献上するための特区であり、その任に秦氏が当たっていたのは間違いありません。

贄とは本来天皇に供御の食料であり、中央と関わりの強い秦氏ならではの役割であったと思われます。贄殿に関して以下Wikipediaより引用します。

贄殿(にえどの)は、日本の律令制において内膳司に付属した機関。令外官。
贄殿は諸国から贄(皇室に進献する食物)として上納された各地の特産物を保管・管理する。職員として別当や預がいた。


ここまで見て、ある事実に思い至りました。贄を献上する御饌津神の最高神が豊受大神だったことです。豊受大神は伏見稲荷大社の主祭神である宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)と同一視されています。理由は、食物を司る御饌津神として同じ神格を持っているからと考えられるのですが…、それだけではなさそうです。

豊受大神は当初海人系の神でした。豊受大神を祀る籠神社(所在地:京都府宮津市字大垣430)の神職は海部氏であり、古くは籠之大明神と呼ばれたそうです。それが、後になって秦氏系の神に衣替えされています。では、どのような経緯で豊受大神は秦氏系の神になったのでしょう?それを知るには神話時代に遡る必要があります。

卑弥呼(=天照大神)の邪馬台国は天孫降臨により日田を経て葦原中津国(=豊前国仲津郡=秦王国)に移転します。そして卑弥呼の宗女が臺与(とよ)でした。伊勢神宮内宮に天照大神が祀られ、外宮に豊(とよ)受大神が祀られるのは、当時の天孫系と秦氏の関係を反映しているのです。

外宮は正式には豊受大神宮です。豊受大神宮に関しては以下Wikipediaより引用します。

豊受大神宮(とようけたいじんぐう、又は、とゆうけたいじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社で、伊勢の神宮の2つの正宮のうちの1つである。一般には外宮(げくう)と呼ばれる。…中略…
延暦23年(804年)に編纂された社伝『止由気宮儀式帳』によれば、雄略天皇22年、天皇の夢に天照大御神(内宮祭神)が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せるように」と神託したので、同年7月7日、内宮に近い山田の地に豊受大御神を迎えて祀ったのに始まる。


豊受大神は籠神社吉佐宮から各地を巡り、最後に伊勢に入りました。籠神社に関しては以下Wikipediaより引用します。

社伝によれば、元々真名井原の地(現在の境外摂社・奥宮真名井神社)に豊受大神が鎮座し、匏宮(よさのみや、与佐宮とも)と称されていた。『神道五部書』の一つの「豊受大神御鎮座本紀」によれば、崇神天皇の時代、天照大神が大和笠縫邑から与佐宮に移り、豊受大神から御饌物を受けていた。4年後、天照大神は伊勢へ移り、後に豊受大神も伊勢神宮へ移った。これによって、当社を「元伊勢」という。


籠神社与佐宮(元伊勢二号)は丹波国で遠敷郡青里は若狭国と離れているように見えますが、実は同じ若狭湾内です。


大きな地図で見る
宮津市と小浜市を示すグーグル地図画像。

以上から何が見えてくるでしょうか?

当初、神(=皇室)に献上される御贄は海産物が主であったため、若狭湾産の贄献上は海人系氏族(安曇族、海部氏など)が従事していました。そこへ秦氏が入植し、贄の権利を奪い取り独占します。海人系の神であった籠之大明神は、これに伴い豊前国の豊を冠した秦氏の神、豊受大神へと変貌したのです。

天照大神の神霊が伊勢に鎮まっても、良質の贄はやはり若狭から献上して欲しいとの意向がありました。「自分一人では食事が安らかにできない」と言う部分ですね。でも少し考えれば、このくだりはおかしいと思い至ります。なぜなら伊勢国の隷属下に置かれた志摩国も、若狭国同様贄の貢進国で鮑や海藻など神事に使用する海産物を献上する御食国(みつけこく)だったからです。

それは平城京から出土した木簡に伊雑郷・名錐郷・船越郷などの表記が見られることからも証明できます。新鮮な海産物が目の前で採れるなら、輸送に時間がかかり鮮度の落ちる若狭産は不要ではないでしょうか?

では、なぜ天照大神は若狭湾産に執着したのでしょう?おかしいと思いませんか?あるいは、籠神社吉佐宮滞在中に食べた若狭の海の幸が忘れられなかったのでしょうか?「日本書紀」には伊勢鎮座の経緯が次のように書かれています。

是神風伊勢国則常世之浪重浪帰国也、傍国可怜国也。欲居是国。
「この神風の伊勢国は、常世の波が打ち寄せ、大和の傍らにあるよい国です。だからこの国に鎮まりたいと思います」

「可怜国」は「うまし国」で、よい国だけでなくおいしい国も意味します。おいしいものを求める天照大神は、吉佐宮を出て各地を転々とし、ようやく海産物がとてもおいしい伊勢の地に鎮座しました。なのに、豊受大神をわざわざ呼びよせているのです。話の筋が通らないこの神話を、私たちはどう読み解けばいいのでしょう?

話の筋が見えないときは内容を逆転させればいいのです。本当の事情は多分以下の通り。

天照大神は伊勢の海産物で満足なのに、秦氏は若狭産の海産物使用を強要した。若狭の贄を使い続けさせるため、豊受大神すなわち秦氏は伊勢まで赴き、天照大神の横に鎮座し監視した。秦氏はこうして自分の権利を確保し続けた。

もしそうなら、天照大神がちょっとかわいそうな気もしますね。もっとも、豊受大神の外宮鎮座には秦氏の謎に関係する巨大な秘密が隠されています。その間の事情は、「歴史に秘められた謎を解く」から一連の謎解きシリーズを参照ください。

まあここは神話通り、天照大神の意向を受けて豊受大神は伊勢に出向き、つまりは秦氏が伊勢に出向き、若狭の贄を献上する役割を果たし続けたとしておきましょう。その結果、豊受大神は神話において天照大神に御饌物を献上する秦氏の神となったのです。

監視が奏功したのか、秦氏の献上は奈良時代になっても継続。それが木簡に記載され、現在の私たちが知るところとなったのです。奈良時代における何本かの木簡で神話時代の秘密が解き明かせるのですから、実に面白いですね。

籠神社や豊受大神に関しては、「歴史に秘められた謎を解く その10」2010年8月2日において別の角度から扱っていますのでご参照ください。

秦氏は遠敷郡青里(=シルクロードの玄関口)を押さえたのですが、その場所はまた、伊勢神宮成立にも関係する極めて重要な地域だったのです。秦氏と伊勢神宮の関係は「パワースポット探訪記 その6 伊勢神宮」2010年6月5日を参照ください。別々と思われる様々な事柄が、有機的に繋がってきます。

秦氏にとってそれほど重要な拠点だったにもかかわらず、小浜市の秦姓は5人のみでした。同じ表現を何度も使っていますが、本当に不可解ですね。同市にはラーメン秦秦、民宿「秦俊司」、秦田鳥漁港などの名が見られます。なお宮津市の秦姓はゼロです。

福井県で次に注目したいのは勝山市です。秦王国の豊前には勝山があり秦氏が居住していました。勝は秦川勝の勝で「すぐり」と読みます。フィギュアスケートで有名な村主さんも「すぐり」です。つまり、「勝」は秦氏系の名前なのです。しかも、羽田姓の多い河口湖にも勝山の地名があります。勝山市に11人も秦姓の方が居られるのはそうしたことが理由だと思われます。

秦氏の後裔ともされる畑時能は勝山市にて亡くなっています。内容は以下Wikipediaより引用します。

畑 時能(はた ときよし、生年不詳 - 興国2年/暦応4年(1341年))は南北朝時代・南朝方の武将。新田義貞の側近で、後代に新田四天王の一人に数えられた。
武蔵国秩父郡の生まれ。新田義貞に従って各地を転戦し、義貞が藤島の戦いで平泉寺勢力に敗死すると、坂井郡黒丸城、千手寺城、鷹栖城を転戦、足利方の斯波高経と激戦を繰り返したが、ついには追い詰められ、鷲ヶ岳に郎党16騎で立てこもった。斯波高経は、平泉寺が再び南朝に味方したと勘違いし、伊知地(現福井県勝山市伊知地)へ3000の軍勢を差し向けた。南朝・興国2年(1341年)10月22日、斯波勢へ突撃した畑時能は数時間に及ぶ激闘の末、肩口に矢を受け、三日間苦しんだ後に亡くなったという。
現在、合戦のあった場所は「伊知地古戦場」として勝山市指定史跡となっており、「畑ヶ塚」が立っている。


新潟県の上越市には秦燃料店がありました。新発田市には秦耳鼻咽喉科医院があります。でも、なぜここに秦姓が集中しているのかは不明です。理由を知るには、現地調査や郷土史のチェックが必要でしょう。

石川県では白山を開いた泰澄が秦氏とされています。もっと調べればあれこれ出てくると思いますが、長くなりそうなので、北陸地方はこれにて終わりとします。


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酔石亭主

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