FC2ブログ

秦さんはどこにいる? その12(久我山の秦氏)

秦さんはどこにいる?
09 /19 2011

駅北側の住宅探索を終え、高井戸二小に向けて歩きます。すぐに墓地らしきブロック塀が見えてきました。位置関係は「その11」のグーグル画像を参照ください。墓地内にはコンクリの地蔵堂があります。

005_convert_20110918191237.jpg
地蔵堂内部です。

010_convert_20110918191336.jpg
解説板。

文字が薄れてやや読みにくいので以下記載します。

民間信仰石塔
小堂内には、奥壁に向かって左側寛文五年(1665年)銘庚申塔・宝永五年(1708年)銘念仏供養塔・享保四年(1719年)銘地蔵菩薩、寛文十年(1670年)銘日待塔、入口近くの左右に三基ずつ並んだ享保八年(1723年)銘六地蔵菩薩の石塔十基が安置されています。
 これらの石塔は、銘文などから旧久我山村の各所にあったことがほぼ確認できます。寛文五年銘の庚申塔は、未だ青面金剛神ではなく地蔵菩薩を尊像とする比較的古い型の供養塔です。
 享保四年銘の地蔵菩薩には、茶燈料として土地を永代寄進したことが刻まれており、当時の信仰形態がうかがわれます。
 寛文十年銘の日待塔は、聖観音菩薩を刻んでいます。日待塔は全国的に見ても比較的少ない供養塔です。
 宝永五年銘の念仏供養塔と享保八年銘の六地蔵菩薩には、光明寺の住職と村人との騒動にまつわる供養塔であるとの伝えがありますが、定かではありません。光明寺は、この墓地の南側にありましたが、明治初年の廃仏毀釈で廃寺となりました。
 この石塔群は、時代的・地域的にまとまっており、いずれも江戸時代中期の標準的な作風を残すものであり、また、当時の久我山地域の信仰形態や風俗を示すものとして貴重なものです。
平成二年二月  杉並区教育委員会


解説板の内容から、江戸時代、この墓地は光明寺の管理下にあったとわかります。 光明寺の名前で連想が働きました。例えば、「歴史の宝庫本郷台を巡る」(2010年6月26日)で書いたのですが、本郷台に秦川勝が創建した仙福寺は後に光明寺となります。

秦野市今泉村の光明寺には秦徐福の子孫である秦太郎蔵人可雄が応永二六年巳交(1419年)に葬られたと伝えられ、寺には「秦徐福後孫秦太郎蔵人可雄十七世」という位牌もあるそうです。(この情報は未確認です)

以上から判断すれば、久我山の光明寺も秦氏が創建した可能性が高そうです。とすれば、お墓も秦さんのものがほとんどかもしれません。

では、秦太郎蔵人可雄とはいかなる人物なのでしょう?藤沢市妙善寺にある福岡家の墓碑に、この人物について記載があります。

001_convert_20110918190940.jpg
墓碑。内容は以下。

翁名文彦字元粛通稱平一郎秦蔵人可雄十七世之孫宗三郎利之少子也明治二九年八月二十二日病卒享年六十有二…以下略

墓碑があるお墓は福岡平一郎氏のもので、内容はわかりにくいのですが、訳せば以下の通り。

翁の名前は文彦でいみ名は粛通、俗名は平一郎で秦蔵人可雄の17代目の子孫に当たり、宗三郎利の子供である。明治29年8月22日病気で死去。享年は62歳。

上記内容からすれば、秦野市今泉村光明寺の「秦徐福後孫秦太郎蔵人可雄十七世」という位牌は秦太郎蔵人可雄ではなく、福岡平一郎氏のものと思われます。徐福から1600年も後の人物が十七世などあり得ないですから…。

実は妙善寺の福岡家の墓所には重要な徐福伝承があります。詳細は「鎌倉・藤沢の義経伝説 その12」(2011年7月13日)に掲載していますので、是非お読みください。

参考までに概略を下記します。徐福伝承は、上記の墓碑とは別の墓碑に刻まれています。

005_convert_20110918191004.jpg
別の墓碑です。

読み取りにくいですが、大意は以下の通り。

「故人である粛政の祖先は秦の徐福から出ている。徐福は始皇帝の戦乱を避けて海を渡航し、我が神州まで渡来して、富士山の山麓に居住した。それ故、子孫は皆、秦を姓とした。近くの地に秦野の名があるのは、一族の旧蹟に関係するものらしい。これは、祖先の地を明らかにするに十分である」天文二三年甲寅(一五五四年)一月十一日 福岡家累代の墓 福岡平一郎

以上から次のような筋道が出来上がります。

秦の徐福が渡来して富士山麓に居住した。よって子孫は秦を姓にした。子孫は800年の富士山大噴火で、大月から丹沢経由秦野に入り定着した。(秦野にも大槻と言う地名があり大月と同じ)
その子孫に秦太郎蔵人可雄がいて1419年に死去した。可雄の5代程度後の子孫に粛政がいて、1554年に死去。墓碑の内容から、一族は徐福伝承を持っていると確認できる。秦太郎蔵人可雄の十七世孫が明治29年に死去した福岡平一郎氏になる。

なぜここで福岡姓が出てくるかと言うと、福岡姓は徐福長男の福永が改名し福岡を名乗ったことに由来するからです。

なるほどと思えるものの、すぐに矛盾が出てきます。徐福の子孫は全て徐福から福の一字を取り、名前を付けています。従って、徐福の子孫=秦氏と連結できません。そもそも、遠い昔に福岡姓を秦姓に改名し、江戸時代になってから福岡姓に戻したでは話の筋が通らないのです。

秦氏は徐福伝承を持ち運びながら移住を繰り返したので、いつしか自分たちの祖先は徐福であると言う話に転化してしまったのでしょう。その伝承が長く伝わったため、秦姓を福岡姓に改名してしまった、と理解されます。いずれにせよ、徐福と秦氏の関係は、この辺が実に微妙で厄介なため、また別途検討する予定です。

話が少しそれました。以上から光明寺を介して、秦氏の所在地である神奈川県秦野市、藤沢市、横浜市栄区本郷台、東京都杉並区の久我山が全部繋がっていきそうです。けれども断定するには早すぎますので、久我山の秦氏を引き続き調査する中で考えたいと思います。

スポンサーサイト



酔石亭主

FC2ブログへようこそ!