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秦さんはどこにいる? その13(久我山の秦氏)


今回も地蔵堂から見ていきます。久我山の秦氏に思いを馳せながら、ふと目を上にやると、壁に地蔵堂新築の世話人名が掲げてありました。何と、秦さんだらけ…。光明寺の創建のみならず、堂内のお地蔵さまや石塔も秦氏が造ったものと考えて良さそうです。

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世話人名を書いた板。

これを見ただけで、久我山における秦姓の密集度がわかります。日本全体で考えても稀な密集度でしょう。東京都内に知られざる(単に酔石亭主が知らなかっただけですが…)秦氏の密集地域があったとは、本当に驚かされます。この一点だけを取り上げても、秦さんシリーズを書いている意味がありそうに思えてきました。

では、地蔵堂に続いて墓地を見ていきます。お墓も想定通り秦さんだらけでした。久我山の光明寺が秦氏の創建によるものとすれば、秦野市の光明寺(現在は久我山同様廃寺となっている)とも繋がっていきそうです。

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墓石の一部です。

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墓誌の一つです。

最も古いもので寛文11年(1671年)と彫られており、久我山における秦氏の歴史が実感されます。地蔵堂の地蔵菩薩が寛文10年ですから、時代的にも対応しています。別の墓誌では正徳2年(1712年)と彫られたものもありました。秦さん以外のお墓としては大熊家のものが立派です。地蔵堂建立の世話人代表者(世話人名の写真右端)が大熊さんでしたから、それも当然ですね。

墓地をざっと見ただけで、江戸時代の久我山で勢力を誇った一族は秦氏と大熊氏だったとわかります。なお大熊氏の先祖は大熊修理亮景勝で、小田原北条氏に仕えていましたが、豊臣秀吉による小田原城落城の後小田原を逃れ、「秦野氏」を頼り久我山の地に土着したとされます。久我山の秦氏は戦国時代当時秦野氏だったのでしょうか?この点は解せないですね。

問題はこれだけ多数の秦さんが、どこから、いつごろ久我山に移住したかです。前回・今回の検討の中で、秦野、藤沢、本郷台の秦氏と久我山の秦氏が繋がりそうに思えました。しかしそれだけでは根拠が薄く、もっと明確な証拠が必要になるでしょう。

問題や疑問は他にもあります。通常秦氏の痕跡は地名に残されています。ところがそれらの地に秦姓はほとんど見られません。一方久我山では秦姓がやたら多く、しかし秦氏地名は全く見られないのです。

以上から何が推測されるでしょうか?一般的に言って、東国における渡来人は7世紀から8世紀頃朝廷の政策により移住させられ、各地に定着したものと考えられます。その場合、彼らの痕跡は地名にはっきり残されています。

久我山の秦氏もこの時期に移住したと推定したいのですが、秦氏地名がないことからすると、もっと遅いのかもしれません。次回では、ちょっと寄り道して東国の渡来人を見ていき、久我山の秦氏の移住時期を探りたいと思います。
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