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秦さんはどこにいる? その14(久我山の秦氏)

秦さんはどこにいる?
09 /21 2011

今回は東国の渡来人から検討していきます。

藤沢市から国道134号線を箱根方面に走り、平塚を過ぎて金目川を渡る頃、右手にちょっとした高さの山が見えてきます。それが高麗山です。一帯は渡来人が多かった地で、高麗山も金目川も、海岸の唐ヶ原も渡来系を表す地名と考えられます。徐福一行は海から大磯に上陸したとの説もありますが、そのまま金目川を遡れば秦野に至りますので、可能性はゼロとは言えません。(注:実際には徐福一行ではなく、徐福伝承を持ち運んでいる秦氏が大磯に上陸した可能性はゼロではないと言う意味です)

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車内から撮影した高麗山。


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高麗山一帯を示すグーグル画像。

画像を拡大すると高麗山の麓に高来神社(=高麗神社)が鎮座し、高麗の地名もあります。高来神社に関しては以下Wikipediaより引用します。

高来神社(たかくじんじゃ)は、神奈川県中郡大磯町高麗(こま)に鎮座する神社。高麗神社とも呼ばれる。旧社格は郷社。社名は一説に朝鮮半島にあった高句麗からの渡来人に由来するといわれる。かつては高麗山の山頂に上宮があって高麗権現社といい、右の峰に白山権現を、左の峰に毘沙門天を勧請して「高麗三社権現」と称した。

高麗山の近くには鷹取山があります。(グーグル画像を参照ください)秦氏研究の第一人者である大和岩雄氏によれば、鷹は秦氏のシンボルとされ、秦王国の豊前には鷹羽郡があり、河内の秦氏居住地には高尾山(鷹巣山)があります。大磯の鷹取山頂にある鷹取神社の祭神は木花咲耶姫命(父神は大山祇神=徐福)です。

ここで気になるのが、旧藤野町小渕にある秦氏の三柱神社。小渕の鷹取山には徐福伝承があり、徐福は始皇帝の尊像を鷹取山の大岩の下に納めて当地を去っていったとされます。

そこで、大磯の鷹取山から小渕の鷹取山に線を伸ばすと、何と大山を経由して小渕の鷹取山に至ります。大山の阿夫利神社祭神はもちろん大山祇神です。天平勝宝4年(752年)には、秦氏である良弁が雨降山大山寺を神宮寺として建立しています。九州の八女には徐福伝承が存在し、その周囲にも鷹取山や高取山があります。徐福の陰に秦氏ありでしょうか?

話が横道にそれたので、元に戻します。朝廷は渡来人をまず大磯に上陸させ、彼らはそこから陸路関東各地に散らばっていきました。中でも知られているのが高麗若光(こまのじゃっこう)です。高麗若光に関しては以下Wikipediaより引用します。

666年(天智5年)高句麗の使者(副使)である玄武若光として来日する。668年(天智7年)唐と新羅の連合軍によって高句麗が滅ぼされたため、若光は高句麗への帰国の機会を失ったと考えられる(『日本書紀』)。
高麗神社の伝承によると相模国大磯(現在の神奈川県大磯町)に居住し、まもなく朝廷より、従五位下に叙された。703年(大宝3年)に文武天皇により、高麗王(こまのこきし)の氏姓を賜与される(『続日本紀』)。ただし、これ以後国史に若光及び「高麗王」という氏姓を称する人物は全く現れない。『日本書紀』の「玄武若光」と『続日本紀』の「高麗若光」が同一人物かどうかは、証明出来ていない推定である。
716年(霊亀2年)武蔵国に高麗郡が設置された際、朝廷は東海道七ヶ国から1799人の高句麗人を高麗郡に移住させたが(『続日本紀』)、その際若光は高麗郡の大領(郡司)に任命されたため大磯を去り、同郡に下って当時荒野であった郡内を開拓して民生を安定させた(その後、東国の武士に影響を与えた)若光は大磯より去ったが、その後も大磯の国人はその徳を慕い高麗寺(高来神社の別当寺、現在は廃寺)を建立し、若光の霊を祀ったという(高麗神社伝承)。


若光の経歴から渡来人の動きがよく見えますね。なお高麗郡設置時の郡域は現在の埼玉県日高市と飯能市の一部とされています。これ以外にも渡来系の名を冠した郡は武蔵国の各地にありました。

例えば新座(新羅)郡です。「続日本記」によれば、758年(天平宝字2年)、日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国に移住させ、はじめて新羅郡をおいたと記録されています。

この他にも秦氏を連想させる幡羅郡(はらぐん、はらのこおり)があります。幡羅郡は現在の熊谷市と深谷市の一部とされています。さらに郡内には上秦郷(かみつはた)・下秦郷(しもつはた)などの秦氏地名が存在していました。

埼玉県熊谷市葛和田には現在もJA秦支店、秦小学校、秦公民館など秦を冠した名前が多数存在します。葛和田の和田は海人系の名前で、ここでも秦氏は海人系の地に入植しているとわかります。葛和田を流れる川が福川なのも、秦氏に関連する匂いがします。


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葛和田周辺を示すグーグル地図画像。

狛江の地名は高麗にちなんでいると推測され、調布から狛江、深大寺一帯は渡来人が多い地でした。狛江にある雲松山泉龍禅寺は、秦氏で大山を開いた良弁が天平神護元年(765年)に創建したとされています。なお、調布の地名は布を税として納めていたこと(租庸調の調)に由来します。狛江には渡来人のものと思われる多数の古墳もあります。

また深大寺の名は深沙大王堂にちなんでおり、深沙大王は辰砂(しんしゃ)大王すなわち水銀の大王を意味しています。水銀は死と再生を象徴する、秦氏にとっても重要な金属でした。日光を開山した勝道上人が神橋で出会ったのも深沙大王とされています。深大寺を開いたのは満功上人の父親である福満とされ、この名前にも渡来系の匂いがします。

東国の渡来人が定着した地には渡来系を示す地名があると確認できました。ところが、上記した土地と地続きの久我山には、秦氏や渡来系を匂わす地名が見当たりません。これは何を意味しているのでしょう?

久我山に秦氏地名がない理由。それは彼らがずっと新しい時代に久我山に入植したからではないでしょうか?大熊氏は小田原城の落城後「秦野氏」を頼って久我山に来たとされています。小田原城落城は天正18年(1590年)です。

頼ると言うからには、この時代に大熊氏と秦野氏が密接な関係にあったことになります。1500年代に大熊氏と秦野氏は親しい関係にあった。その後秦野氏は久我山に入った。小田原城落城後大熊氏は、秦野氏を頼って久我山に入った。そうした構図になるのではないでしょうか?

ここで、「その12」に記載した徐福関連の墓碑年代を参照します。藤沢妙善寺にある粛政の墓碑には、天文二十三年(1554年)甲寅一月十一日と彫られています。また、秦野市今泉村光明寺に福岡家先祖の秦太郎蔵人可雄が葬られたのは応永二六年巳交(1419年)でした。

上記より、1400年代秦野に居住していた秦氏は、1500年代に入り藤沢に移住したものと推測されます。

そこから、どんな筋道が描けるでしょう?小田原城に近い秦野荘にいた徐福系秦氏が1500年の前半に至り、一部は藤沢に、大多数が久我山に移住した。1590年の小田原城落城後、大熊氏が秦氏を頼って久我山に来た、と言うストーリーにならないでしょうか?(注:徐福系秦氏の表現は、徐福伝承を持ち運んでいる秦氏と言う意味で使っています)

この推論が正しいかどうか、次回でさらに検討します。
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酔石亭主

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