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秦さんはどこにいる? その15(久我山の秦氏)

秦さんはどこにいる?
09 /22 2011

今回も前回に引き続き、秦氏の久我山移住時期について検討します。この問題を地元はどのように考えておられるのでしょう?実は地元の研究者も秦さんでした。自分の先祖の歴史=郷土史だなんて、何とも痛快な話です。

秦さんによると、秦氏の久我山移住時期は平安末期。源頼朝が活躍し始める頃のことです。移住に関係する頼朝の活動は以下Wikipediaより引用します。

平安時代末期に河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると平氏打倒の兵を挙げ、関東を平定し鎌倉を本拠とする。…中略…
挙兵の第一攻撃目標は伊豆国目代山木兼隆と定められ、治承4年(1180年)8月17日頼朝の命で北条時政らが伊豆国韮山にある兼隆の目代屋敷を襲撃し、兼隆を討ち取った


平氏打倒のため、頼朝は有力武将に書状を送り参戦を呼びかけます。これに対し、北条時政などが呼応しました。ところが波多野荘を支配する波多野義常は平家側に付き、頼朝の使者安達盛長に罵詈雑言を浴びせ追い返したのです。その後関東の支配権を確立した頼朝は、義常に討伐軍を送り、義常は本拠地である松田郷で自害しました。

この波多野氏の一族が相模国波多野荘を捨てて武蔵野に向い、久我山に住みついた。その結果久我山には多数の秦氏が居られる、と言うのが秦さんのご見解のようです。よって移住時期は平安時代末期(あるいは鎌倉時代初期)となるのです。

しかし義常が自害し、波多野氏の生き残りが久我山に来たとしても、彼らは秦氏とは全く別系統の一族です。波多野氏に関しては以下Wikipediaより引用します。

前九年の役で活躍した佐伯経範が祖とされ、河内源氏の源頼義の家人として仕えていた。経範の父・佐伯経資が頼義の相模守補任に際して、その目代となって相模国へ下向したのが波多野氏の起こりと考えられている。…中略…
経範から五代目の子孫・波多野義通は頼義の子孫である源義朝に仕え、その妹は義朝の側室となって二男朝長を産み、保元の乱・平治の乱でも義朝軍として従軍しているが、保元の頃に義朝の嫡男を廻る問題で不和となって京を去り、所領の波多野荘に下向したという。
義通の子波多野義常は京武者として京の朝廷に出仕し、官位を得て相模国の有力者となる。義朝の遺児源頼朝が挙兵すると、義常は頼朝と敵対し、討手を差し向けられて自害した。


以上より、波多野氏は秦野に入ったから波多野姓を名乗っただけで、秦氏ではないことになります。また波多野義常は武将であり、秦氏は古来より武士として存在していません。(秦川勝の子孫が武士になった伝承はありますが…)久我山の秦氏も地元の大地主であり、武士の子孫ではないはずです。以上から秦さんの説には疑問があります。

この問題は別として、久我山にはかつて秦野姓の方が数多く居られたようです。明治になって戸籍法が発令され、戸籍簿を作る際に、秦野から野を省き秦の一字だけで戸籍簿を作ってしまったとか。従って、現在の久我山には秦姓の方が多く居られることになったとされます。明治の話ですから信憑性は高そうですが…、これも若干疑問があります。

秦姓を改名して秦野姓や羽田姓になることは頻繁に見られます。しかし傍流の姓である「波多野」から「秦野」に改名し、それから秦氏本流の姓である「秦」を称するとは考えにくいのです。

論点を整理してみましょう。秦さんの説では、平安時代末期、波多野義常が頼朝の挙兵に応じず自害、彼の一族は波多野荘を捨て久我山に入り秦野姓となった。1590年の小田原城落城後大熊氏は秦野氏を頼って久我山に来た。明治になり秦野姓から野を取り秦姓になった、となります。

酔石亭主説は、秦野にいた徐福系秦氏が1500年代前半に藤沢や久我山に移住した。1590年の小田原城落城後、大熊氏は秦氏を頼って久我山に来た。久我山において秦姓から秦野姓が派生したが、明治になり秦野姓は秦姓に戻した、となります。

平安末期に秦氏(秦野氏)が久我山に移住したとすると、小田原城落城まで400年も経過することになり、大熊氏が秦氏(秦野氏)を頼ると言う点も筋が通らなくなります。酔石亭主説はこの点に無理がありません。久我山にあるべき秦氏地名が全く見られないのも、秦氏の入植時期が平安末期よりずっと遅い戦国時代であることから説明が付きます。

両説において一致するのは、彼らが秦野から移住した点です。

しかし酔石亭主説も大きな問題を内包しています。秦野にいた秦氏は徐福伝承を持っていたのに、久我山の秦氏にはそれが見られないと言う点です。

藤沢市の妙善寺にある徐福伝承を見る限り、徐福系秦氏は徐福の存在を意識の中心に置いています。それを久我山に行ったら忘れてしまったなどあり得ないことです。なのに、久我山の秦氏に徐福伝承はないのです。

頭を抱えますが、現在の酔石亭主説では上記の疑問に答えることができません。この問題の解決は難しそうなので、久我山の秦氏関連地域を全部見終わってから再検討することといたしましょう。

なお、本ブログは一週間ほどお休みします。
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酔石亭主

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