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秦さんはどこにいる? その19


久我山の秦氏について書き終わり、次の地域に移ろうと思っていたのですが、まだ東京で後ろ髪を引かれる場所があります。それは、東京23区の一つ豊島区です。豊島区がなぜ気になるかと言うと、秦氏地名の可能性があるからです。

豊島が秦氏地名と推定される理由は、頭に「豊」が付くこと。もう一点は、摂津国豊島郡が秦氏の拠点地域であることによります。これはきっと、秦氏が摂津国豊島郡の地名を関東に持ち込んで武蔵国豊島郡になったのではと思い、豊島の地名由来を調べてみました。Wikipediaなどは、秩父平氏の流れである豊島氏が豊島郡の起源になるとしています。

確かに千葉や江戸は千葉氏、江戸氏が地名の起源となっていますので、豊島氏も同様に考えておかしくありません。他にも地名由来説があって、隅田川河口に島が多かったので「十島」とか、「砥嶋」などが挙げられているようです。問題は、秩父平氏では秦氏と関係がないことです。

これでは行き詰るかなと思っていたら、「日本書紀」の仁徳天皇18年庚申春に、武蔵国豊島郡から2頚の狐を得て云々と言う記述がありました。秩父平氏の豊島氏が起源ではないと確認できる内容です。

さらに調べて見ると、やはり摂津国豊島郡が関連する線も出てきました。摂津国豊島郡の豊島連が関東に移住して豊島の地名になったとするものです。豊島蓮の祖は彦八井耳命で、その子孫には茨田宿禰、茨田連などがあります。

「日本書紀」では茨田堤を茨田連が新羅人を使って造ったとあり、「古事記」では新羅人が秦人になっています。大和岩雄氏は「日本にあった朝鮮王国」(白水社)で、「秦氏系茨田氏」と記載し秦氏との繋がりを認めています。以上から、摂津国豊島郡にいた彦八井耳命の子孫である豊島連も、茨田連同様秦氏系の可能性があります。

その豊島連が武蔵国に移住し、豊島と言う秦氏地名を持ち込んだのではないでしょうか?移住に当たっては秦氏が同行した可能性もあります。やや強引ではありますが、ようやく摂津国豊島郡と武蔵国豊島郡が秦氏のキーワードで連結しました。だとしたら、現在の豊島区にも秦氏の痕跡があるはずです。そう思いあれこれ調べました。

話は急に変わるのですが、「写し霊場」なる場所が日本各地にあります。写し霊場の元になるのはもちろん弘法大師空海の四国八十八ヶ所。江戸時代にはお伊勢参りだけでなく、四国八十八ヶ所を回るお遍路が盛んになりました。

しかし、関東から四国に行くだけでも大変な苦労です。行ったら行ったで今度は四国をぐるりと徒歩で一周するのですから、その労力たるや筆舌に尽くしがたいものがあるでしょう。人間信仰心が高まるのは高齢となってから。でも、お年寄りでは四国まで歩けません。

そこで、地元に四国八十八ヶ所のコピーを設置し、庶民が手軽に弘法大師の徳に触れることができるようにしたのです。こうしたコピーを写し霊場と呼んだのですが、藤沢を例に取ると、四国より砂を取り寄せ、大師座像を各寺に安置し「相模国準四国八十八ヶ所」なる霊場が設置されました。

徳川幕府のお膝元である江戸にも当然同様の写し霊場が設置され、御府内八十八ヶ所と呼ばれました。これにより信仰心の篤い江戸庶民もお手軽に巡礼できた訳です。でも、御府内八十八ヶ所が秦氏と何の関係があるのか、と指摘されそうです。その疑問に答える前に、四国の秦氏に関しておさらいしておきましょう。

四国八十八ヶ所の空海は秦氏と縁が深く、四国の秦氏と言えば真っ先に土佐国が頭に浮かびます。土佐国の大名長宗我部氏は秦氏の流れを汲むとされ、高知市内には今も多数の秦氏地名が残り、幡多郡には大月町まであります。

その土佐国幡多郡には四国八十八ヶ所の第三十八番札所、金剛福寺があります。金剛福寺に関しては以下Wikipediaより引用します。

金剛福寺(こんごうふくじ)は、高知県土佐清水市にある寺院。蹉跎山(さだざん)、補陀洛院(ふだらくいん)と号す。宗派は真言宗豊山派 。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八箇所霊場の第三十八番札所。境内には亜熱帯植物が繁っている。足摺岬の遊歩道付近には、ゆるぎ石、亀石、刀の石、亀呼び場、竜橙の松、竜の駒、名号の岩の「弘法大師の七不思議」の伝説が残されている。山号の文字「蹉」も「跎」もともに「つまづく」の意味で、この地が難所であったことを示している。
寺伝によれば、弘仁13年(822年)に、嵯峨天皇から「補陀洛東門」の勅額を受けた空海(弘法大師)が、三面千手観世音菩薩を刻んで堂宇を建てて安置し開創したという。空海が唐から帰国の前に有縁の地を求めて東に向かって投げたといわれる五鈷杵は足摺岬に飛来したといわれている。


秦氏に縁の深い空海が、秦氏の居住区と思われる幡多郷に創建したのが金剛福寺でした。そこで第三十八番札所である金剛福寺の写し寺を御府内八十八ヶ所から拾ってみます。すると…、驚くべきことに豊島区内の金乗院が金剛福寺の写し寺となっていました。

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第三十八番を示す金乗院山門前の石柱。

秦氏の色が濃い土佐国幡多郷のお寺と、秦氏地名と思われる豊島区内にある金乗院がここにリンクしたのです。秦氏は必ずと言っていいほどこの種のリンク付けを行います。一族の癖のようなものですね。だとしたら、金乗院に秦氏の痕跡が見られるはず。早速行ってみましょう。

行き方は山手線大塚駅で都電荒川線に乗り換え、学習院下で下車。東に少し歩き高南小のお隣で、住所は豊島区高田2丁目12番39号です。


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金乗院を示すグーグル地図画像。

まずは大塚駅から都電荒川線に乗り込みます。実は荒川線に乗るのは生まれて初めてです。

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荒川線車内から撮影。これが都内の景色とは思えません。(写真は帰りに撮影)

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もう一枚。

学習院下駅の手前です。一両編成の都電ですから、江ノ電よりちっちゃいですね。しかも両側はまるで森のよう…。都電の左側は明治通りで、その左に学習院があります。学舎は丘の上のような場所にあり、緑が豊富。都電の周囲が森に囲まれているのはその影響と思われます。

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千登世橋です。これも学習院下駅の手前にあります。

昭和7年に架設されたもので、明治通りと目白通りの立体交差橋で土木史的価値が高いと解説板に記されていました。

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千登世橋から見た明治通り。かなり下り坂になっています。右手の丘が学習院の杜。

学習院下駅で下車し東に歩きます。まず目に飛び込んできたのが、巨大な新築マンションです。

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マンション。

マンションの先が上り坂になっています。ちょっと寄り道して、上り坂を見てみましょう。

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上り坂。びっくりするほどの急な坂です。

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坂だけを撮影しました。お年寄りならとても歩けません。

高南小を横目に少し歩くと金乗院に着きました。山門前には御府内第三十八番弘法大師と彫られた石柱以外にも何本か石柱があります。

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別の石柱裏面。

土州足摺山代と彫られています。金剛福寺は足摺岬のすぐ近くですから、さもありなんと思えます。またこの石柱で金剛福寺と金乗院の関係が理解できます。


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金剛福寺を示すグーグル地図画像。

金乗院に関しては以下Wikipediaより引用します。

金乗院(こんじょういん)は、東京都豊島区高田にある真言宗豊山派の寺院である。山号は神霊山。江戸五色不動のひとつ、目白不動尊を祀っていることで知られている。
当寺院は、開基である僧・永順が本尊である聖観音菩薩を勧進して観音堂を作ったのが始まりであるとされている。永順は1594年に没しているのでそれ以前の天正年間の頃(1573年~1592年)の創建ではないかと推定されている。当初は中野にある宝仙寺の末寺で蓮花山金乗院と称したが、後に護国寺の末寺になり神霊山金乗院となった。


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境内です。本堂は新しい。

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案内板。

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解説板。

解説板には秦氏関連など何も出ていません。困りましたね。お寺に秦氏の痕跡はなさそうです…。ただこのお寺にはかなり有名な人物のお墓があります。そう、丸橋忠弥の墓です。

丸橋忠弥と言えば慶安の変(由井正雪の乱)の由井正雪が頭に浮かびます。徳川家綱が家光の後を継いだころ、彼らは幕府転覆を謀るのですが、密告により事は露見。慶安4年(1651年)7月に由井正雪は自害し、8月に丸橋忠弥が磔刑となり、計画は頓挫します。

この事件でまず気になるのは由井正雪の名前です。由井は「鎌倉の地名由来」で出てきた由井の里の由井です。由井の里に秦氏が絡むのは既に論証しています。同様に、由井正雪にも秦氏が絡んでいるのではないでしょうか?それが首謀者の一人丸橋忠弥であるとも考えられます。

丸橋忠弥に関しては、以下Wikipediaより引用します。

出自に関しては諸説あり定かではなく、長宗我部盛親の側室の子として生まれ、母の姓である丸橋を名乗ったという説、『望遠雑録』には上野国出身との記述があり、また出羽国出身という説などもあり、長宗我部氏とは関係ないとする説もある。なお、河竹黙阿弥の歌舞伎『樟紀流花見幕張』(慶安太平記)では、本名は「長宗我部盛澄」(ちょうそかべ もりずみ)と設定されている。

丸橋の名字は出羽国出身の乳母の姓を取ったものですが、上記のように秦氏の流れを汲む長宗我部盛親の子だとの説がありました。ここまで書いてきた流れからすると、丸橋忠弥は秦氏のように思えます。本当かどうかお墓を見に行きましょう。本堂に向かって右側の石段を上がると墓地になります。

上り口には様々な古い庚申塔があります。本堂の手前には龍が彫られた倶梨伽羅不動庚申もありました。忠弥の墓は案内表示に従って歩けばいいのですが、途中でわかりにくくなります。しかしそれほど広い墓苑ではないので、すぐに見つかるはずです。

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丸橋忠弥の墓です。

忠弥の墓の手前右手に古そうな墓石が並んでいます。ちょっと見てみましょう。すると…。

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何と、秦氏とあります。

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そのお隣には長曾我部氏とあります。

ここの墓石は全て長宗我部ではなく長曾我部と表記されています。長宗我部氏は自分たちの祖先を秦氏としていますが、仲好く長宗我部氏と秦氏が並んでいるのには驚きです。

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波田氏と書いたものもありました。

この墓石は、秦氏が改名して波田氏となった事実を物語っています。凄いですねぇ。

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こちらの墓碑は秦氏長曾我部畑云々と彫られています。

秦氏長宗我部の畑さんの経歴と言う意味でしょうか?畑の下の漢字が坐や巫に似通った文字となっています。その一つ飛んで下の漢字も十が三つに上と書いてあるように見えます。いずれにせよ、現状では漢字がわからず読めません。

この内容から、秦氏と長宗我部氏と言う別の氏族がそれぞれ埋葬されているのではなく、同じ一族を意味していると理解できます。秦氏=長宗我部氏なのです。

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これは秦甚兵衛武成でしょうか。

秦武成で検索すると、若狭秦家文書の中に名前が出てきます。多烏浦の海産物は寛喜3年(1231年)に多烏浦の刀弥に補任された秦武成が負担するなどと書かれています。もちろん同一人物ではありません。

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これは秦武善の奥さんの墓のようです。

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丸橋忠弥の墓。戒名が「尭雲院忠徳道盛居士」と彫られています。

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墓石には家紋が彫られていますが、長宗我部氏の方喰(カタバミ)紋です。

丸橋忠弥が長宗我部氏とすれば、自動的に秦氏になるはずです。しかし、戒名からは判別できません。そんな場合には墓石の裏面をチェックします。木の柵が邪魔して撮影が難しく、文字も摩耗して見えにくくなっていますが、何とかやってみましょう。

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墓の裏面です。「長曾我部」と読み取れます。

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その下部です。「我部忠弥秦」と読み取れます。

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最下部です。「弥秦盛澄」と読み取れます。

繋げれば、「長曾我部忠弥秦盛澄」となります。忠弥を外せば、河竹黙阿弥の歌舞伎『樟紀流花見幕張』における本名と同じでした。名前の右側には死去した日付が彫られています。読み取りにくいのですが、死去したのは 慶安4年8月10日(1651年9月24日)ですから、「慶安四年八月十日卒」で間違いないでしょう。

何と、由井正雪とともに幕府転覆を謀った丸橋忠弥は、秦氏の子孫である長宗我部氏で盛澄と言う名前だったのです。

なお忠弥は例の鈴ヶ森で処刑されるのですが、遺骸一族により持ち出され紀州で埋葬されます。その後秦武郷(はたたけくに)が金乗院に改葬したとされます。改葬時期は、処刑から100年以上経過した安永9年(1780年)7月14日です。墓石にある秦甚兵衛武成、秦武善は、名前に「武」が付くことから秦武郷の子孫である可能性も窺えます。

つまり丸橋忠弥は、長宗我部秦氏に守られてこの金乗院で永遠の眠りについているのです。
また金乗院は長宗我部秦氏の菩提寺と言うことになります。

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卒塔婆の背後には巨大マンション。何ともシュールな光景です。

それにしても不思議です。幕府からすれば、許すべからざる大罪人丸橋忠弥の墓が自分のお膝元にあるからです。密かに墓石を建てたとしても、はっきりと名前が記されているので、すぐにばれるでしょう。幕府に通報が行けば墓は破却されるはずです。なぜこの墓は残ったのか知りたいと思います。

また長宗我部氏の一部が秦姓に戻ったのはなぜでしょう?久我山の秦氏も似た例がありますが、秦野氏から秦氏への改名は有り得ることと思えます。秦から波田への改名も当然有り得ます。しかし秦→長宗我部→秦はどうも理解できません。両方の疑問は長宗我部氏の子孫が現在も居られることから、何らかの答えがありそうな気がします。

上記疑問はあるものの、長宗我部氏は間違いなく秦氏の流れを汲んでいると思います。理由は以下の通り。

御府内八十八ヶ所の遍路は、信仰と言うより江戸庶民のレジャーでした。今回金乗院を訪問した際、御府内八十八ヶ所を廻っているご婦人方とお話ができたのですが、全部回ること自体を目的とされていました。多分、江戸時代も五十歩百歩だったと思われます。

そうした意味合いの御府内八十八ヶ所に、秦氏は密かに仕掛けを構築し別の意味を持たせたのです。彼らは武蔵国豊島郡の金乗院を土佐国幡多郷にある第三十八番札所金剛福寺の写し寺にさせ、金乗院を一族の菩提寺とさせました。四国八十八ヶ所と江戸における写し霊場をちゃっかりリンクさせていたのです。

秦氏は、本来自分たちとは関係のない御府内八十八ヶ所の一つを取り込んで換骨奪胎し、自分たちにとって都合のいいものに仕立て上げました。そうした秦氏の隠れた意図を、幕府も庶民も見抜けなかったはずです。このような仕掛けや仕組みの構築こそが秦氏の得意技ですから、仕掛けを担った長宗我部氏は秦氏であると断定できるのです。

いや、もっとうがった見方をすれば、秦氏は初期の長宗我部氏を乗っ取ってしまったのかもしれません。そんなこととはつゆ知らず、長宗我部氏が自分たちを秦氏の子孫と考えているとしたら…。秦氏の思う壺となってしまいます。ちょっと恐ろしい想像ですが、可能性ゼロとは言えません。

今回は東京の秦さんを追加的に書いたものです。追加にしては記事の量が多くなり、秦氏の仕掛けと秦氏の改名に関する具体例を見ることができました。予想を越える収穫を得られたのでは、と思います。

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