富士山麓の秦氏 その19


前回は様々なヒントを得て、阿祖山太神宮の間近まで迫りました。しかし、跡地を見いだせないままに終わっています。今回は何としても跡地発見を目指したいと思います。でも、その前に宿泊するペンションへ…。場所は南朝碑の前をさらに進み、左折して少し山に上がった辺りです。つまり、南朝碑の真上に近い場所となります。

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道路から遠望したペンション。

何だかお金持ちの別荘のような佇まいです。ペンションの名前は「河口湖インターハイツ」。もっとも河口湖からはかなり離れていますが…。


大きな地図で見る
ペンションを示すグーグル画像。

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宿のテラスから見た大明見と背戸山のほぼ全景。絶景です。

ここに連泊しますので、宿の方からあれこれお話しを聞いてみました。すると、浅間神社の元になる社がこの下にあるとのこと。場所を聞くと、あろうことか、ペンションのお風呂が別棟になっており、その脇を下れば一分で着くそうです。

そして、富士吉田市が作成したと思われる、「ふじよしだ歩楽百景」と言う一枚のパンフレットを頂きました。手持ちの地図やグーグル画像を見ても出ていないのですが、このパンフの地図には、南朝碑に相当する場所に浅間神社古宮と記してあるのです。

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パンフレットの地図。

これこそが阿祖山太神宮に他ならないとわかります。楽しみは明日に残して、今日はゆっくり宿でくつろぐことにしました。

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宿のお部屋。

前面の窓から大明見と富士吉田市街、側面の窓から背戸山を望めます。広く開放的で明るいお部屋です。

ここは単なる絶景の宿ではありません。何しろ宿の立地は、聖地と考えられる阿祖山太神宮のほぼ真上。徐福が阿祖山太神宮に来たなら、きっと同じ光景を見ているはずです。宿のテラスに立って大明見を眺め渡すのは、正に感動の時間。当初は小明見に泊まろうかと思っていましたが、こちらにしたのは大正解でした。

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早朝の大明見。霧がかかって幻想的な光景となっています。

朝食前に、風呂場棟の脇を下ります。すると…、ありました。小さな石の祠です。

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石の祠。

この場所こそが阿祖山太神宮の中心でした。日本の大聖地が今では小さな祠になってしまったのですから、諸行無常の響きがあります。でも、跡地からは強力な気が発せられているような…。ここは、プレート三重点の富士宮は別格として、富士山麓における最強のパワースポットなのです。

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木の祠も隣に鎮座しています。

祠から下ると、あっけなく南朝碑と泰山府君碑の間に出ました。驚いたことに、両方の碑は阿祖山太神宮の敷地内に建てられていたのです。そしてこの場所が富士高天ヶ原王朝の核心部だったのです。富士高天ヶ原王朝は富士山の鬼門に所在する。これは偶然なのでしょうか?

多分、最も居心地のいい場所(ある意味でパワースポット)を探した縄文人がこの地に入ったのでしょう。そこに海人系の手で富士高天ヶ原王朝が建設されます。徐福と秦氏は海人系の案内で富士山麓に到達。富士山の鬼門の地を目指したいと希望したところ、そこが富士高天ヶ原王朝の中心部であったのです。敷地内には、他に小さな石祠や稲荷社もあります。

そして、酔石亭主が宿泊しているのは王朝の中と言ってもいいような場所でした。本当に驚きですね。富士山麓で徐福や秦氏の探索をされる方は、稀有の聖地にある「河口湖インターハイツ」(=富士高天ヶ原王朝別邸と名付けます)の宿泊をお勧めします。

住所:富士吉田市大明見3973
TEL.FAX:055-22-1776

阿祖山太神宮跡地周辺にはいくつも小さな社がありますので、見ていきます。

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鳥居と石碑です。

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石碑。

天照大神とあります。左隣には蠶(蚕)影山大神とあります。これは金色姫伝説にちなんでいるのでしょう。伝説は以下のようなものです。

蚕神の伝承で天竺の金色姫が桑の木のうつぼ舟に乗せられて日本に漂着し、漁師が助けた。姫が死んだ後、漁師は亡き骸を唐ビツに入れた。ある夜唐ビツを開けると小さな虫がたくさんいた。桑の葉をあげると虫は喜んで食べ繭を作った。漁師は姫の御霊を祀り、蚕影山大権現と称したとされます。

漁師は姫の左に富士の神、右に筑波の神を祀ったとされます。このため、筑波の蚕影山神社(権現)の祭神には木花咲耶姫命が入っています。蚕影山大神は富士の神と関係があるので、この石碑にも名前が入ったものと推定できます。また養蚕や甲州絹の関連から秦氏・徐福との繋がりも窺えます。本当にこの地には色々ありますね。

もう一つ神社を見ていきましょう。金山神社で、グーグル画像にも出ています。ほとんどの社は杓子山から続く背戸山の尾根に沿って鎮座しているのですが、この神社は杓子山のほぼ南に位置する高座山から派出する広い尾根の麓となります。

ちなみに、徐福は膨大な書物と印度から持ち帰った薬師如来像を小室高座山の宝蔵に収め、阿祖大神宮の宝物にしたそうです。高座山と寒川神社のある高座郡。何か繋がりがあるかもしれません。体力が許すなら高座山の探索を試みたいところです。徳川の埋蔵金に匹敵するお宝でも発掘できれば、ムヒヒとなるのですが…。

夢物語はさて置いて、金山神社に向かいます。と言っても古屋川沿いから少し南に入るだけです。

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金山神社の石祠。一般的な石祠と比較して、かなり大きなものです。

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コンクリで覆われた社殿。

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社殿内部。

古屋敷の桑原氏が奉斎しているようです。この神社には藤原光親の首塚があるとのことで、石祠がそれに当たるのかもしれません。桑原氏は奥州藤原氏の子孫とされるので、その関係で光親を祀るのでしょう。光親に関しては以下Wikipediaより引用します。

葉室 光親(はむろ みつちか、安元2年(1176年) - 承久3年7月23日(1221年8月12日))は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての公卿。藤原 光親とも言う。権中納言・藤原光雅の次男。官位は正二位・権中納言。承久の乱で上皇方として戦い、義時追討の院宣を執筆したため、戦後主要な戦犯とみなされて処刑された。


また河口湖インターハイツの横の道を山に上がると陸橋があり、その脇には南朝忠臣藤原藤房卿墓があります。

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南朝忠臣藤原藤房卿墓。

これもWikipediaより引用します。

万里小路藤房(までのこうじ ふじふさ、永仁4年(1296年) - 康暦2年/天授6年3月28日(1380年5月3日)?)は、鎌倉時代から南北朝時代の公家。父は万里小路宣房。弟に万里小路季房、養子に万里小路仲房(季房の子)がいる。
後醍醐天皇の側近として仕えて、鎌倉幕府倒幕計画に参加する。元弘の変では楠木正成の起用を勧めた人物と言われる。後に捕えられて下総国に流された。
建武の新政後に復帰して中納言になるが、天皇の側近重用政治を諫めるも聞き入れなかったため、新政権に失望して出家して京郊外の岩倉に隠遁してそのまま行方不明となる。


古代から鎌倉時代にかけてのさまざまな人物が大明見に関係しているとわかります。この地がいかに聖なる場所であったか理解されますね。ついでにその他の人物も見ていきます。

明見の権正氏は何と鎌倉権五郎景政の子孫を祖先としています。景政は景正とも書くので、権と正を取って権正氏としたのでしょう。そして圧巻なのは、源頼朝までこの地に来ていることです。富士吉田市の新町にかつて御敷屋と言う地名があり、これは同地に来た頼朝に敷物を献上したことから名付けられました。鎌倉の謎解きで頼朝は秦氏の影響下にある人物と書いています。頼朝は秦氏の要請で富士北麓まで来たのでしょうか…?

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陸橋手前辺りからの富士山。

次回は古屋川の渓谷を遡ってみます。

                 ―富士山麓の秦氏 その20に続く―

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